【残っている音】  夜のファミレスは、時間だけがゆっくりと流れているようだった。  窓の外はすでに暗く、街灯の光がガラスにぼんやりと滲んでいる。  店内には数組の客しかおらず、どの席も互いに干渉しない距離を保っていた。  注文を終え、料理が来るまでの、わずかな間。  冷房の風が一定のリズムで天井を撫で、  グラスの中で氷が、時折、乾いた音を立てる。  コウタは、そのグラスを指で軽く押した。  水面が揺れる。  わずかな波紋が広がり、すぐに収まる。  それを、もう一度繰り返す。  理由は特にない。  ただ、手を止めると、考えがまとまりすぎる気がした。 「最近さ、変な夢ばっかり見る気がして」  言葉は、静かに落ちた。  誰かに聞いてほしいわけでも、  はっきり伝えたいわけでもない。  ただ、黙っているには少しだけ重い。 「なにそれ」  ハヤテはストローを口にくわえたまま、顔も上げずに返す。  興味がないわけではないが、深く踏み込む気もない。 「同じ場所なんだよな、毎回」  コウタは視線を落としたまま続ける。  夢の中の風景を思い出そうとすると、  輪郭だけが先に浮かび、細部はすぐに溶けていく。 「知らないはずなのに、知ってる感じがしてさ」  言いながら、自分でも納得できていないことが分かる。  説明がつかないものを、  言葉にしようとしている感覚。 「疲れてんのかな……」  原因らしいものを一応置いてみる。  けれど、それで終わる話ではないことも、どこかで分かっている。 「夏だしな」  ハヤテはすぐに返す。  ヒナタは、窓の外を見たまま。 「まあ、あるかもな」  遅れて、短く返す。 「幽霊的なやつ?」  ハヤテが、軽く笑いながら言う。 「わかんない、なんか……」  コウタは言葉を切る。  一度、考えるのをやめるように。  それでも、残る感覚がある。 「音だけ残ってる、みたいな」  その瞬間、空気がわずかに止まる。  何かが起きたわけではない。  ただ、さっきまでと同じではない。 「霊感、強いとか?」  ハヤテが肩をすくめる。 「そういうの、ある?」  コウタは顔を上げないまま返す。  自分の言葉を、外側から確認するように。 「俺は多分ねえな」  ハヤテは短く言って、ストローを指で回す。  ヒナタは、すぐには口を開かない。  会話を受け取ってから、  ほんの一拍だけ遅れて考える。  何を言うかではなく、  どこまで言うかを測るような間。 「……見えてても、多分気にしない」  強くも弱くもない声。  ただ、揺れていない。  コウタが顔を上げる。 「どういう意味?」  今度は、はっきりと聞く。  ヒナタは少しだけ目を細める。 「気にした時点で、そっちに寄るだろ」  当たり前のことのように言う。  説明はない。  補足もない。  コウタの指が止まる。  グラスの中の水は、まだわずかに揺れている。 「……寄るって、なにに」  問いは小さいが、引っかかりは消えない。  ヒナタは答えない。  代わりに、グラスの縁に触れる。  指先で、水面をなぞる。  その動きはゆっくりで、無意識に近い。  波紋が消える。  ぴたりと、止まる。  それ以上、何も起きない。  音も、変化もない。  ただ、止まっただけ。  ヒナタは、その水面を一瞬だけ見ている。  確かめるみたいに。  それから、何もなかったように指を離した。  その動作を見て、コウタだけが、わずかに顔をしかめる。  理由は分からない。  分からないまま、残る違和感。 「なんか損してる気がする」  小さく息を吐く。  拾わない選択をしていることが、  何かを見逃している気がする。 「むしろ得だろ」  ハヤテがすぐに返す。  迷いなく。 「拾わなくていいもん、拾わないで済むし」  軽く言い切る。  そこに疑いはない。  コウタは曖昧に頷く。  納得はしていない。  けれど、否定もしない。  そのまま、もう一度グラスを見る。  さっき止まったはずの水面が、  ほんのわずかに、  遅れて揺れた気がした。  誰も触れていないのに。 【遅れてくる音】  コウタは、グラスから目を離した。  さっき見た揺れを、これ以上追わないように。  見続けてしまえば、理由を探してしまう気がした。  意味を与えた瞬間に、戻れなくなる。  一度だけ、ゆっくり瞬きをする。 「……気のせいだよな」  誰に向けたわけでもない声が、テーブルの上に落ちる。 「そういうのは大体、気のせいだろ」  ハヤテが軽く返す。  それで終わるはずの会話だった。  そこで切れていれば、何も残らなかったはずだった。  ヒナタが、グラスを置く。  小さく、乾いた音が鳴る。  その音が、ほんのわずかに遅れて聞こえた気がして、  コウタの肩が、無意識に強張る。  遅れた、というより、  あとから追いついてきたような感覚。  今の一瞬が、二重に重なったような。  ふと、視線が合う。ヒナタは、何も言わない。 「……なあ」  思わず口を開く。  止めるより先に、言葉が出る。 「さっきの音」 「さっき?」  ハヤテが首を傾げる。  反応はいつも通りで、  そこに引っかかりはない。 「いや……なんでもない」  言い切って、引っ込める。  口にした瞬間に、形になる気がした。  ヒナタは何も言わない。  ただ、テーブルの上を一度だけ指で叩く。  コツ、と音が鳴る。  短く、乾いた音。  今度は、ちゃんと一度だけ。  遅れも、重なりもない。  何もおかしくない。  何も起きていない。  はずなのに。  コウタの中にだけ、  さっきの違和感が残っている。  音が、少しだけ遅れて、  あとから追いついてくる感覚。  消えきらずに、  そこに留まっているみたいな。 「……やっぱ、変だわ」  小さく呟く。 「夢の続き、起きてても見てるみたいな感じする」  言葉にしても、ぴったりはこない。  それでも、近い形を選ぶしかない。  ハヤテは少しだけ黙る。  すぐに返さず、  コウタの様子を一度だけ見る。 「それ、寝不足じゃねえの」  軽く言う。  いつもの調子に戻しながら。  それ以上踏み込まないための言い方。  ヒナタが、ふとコウタを見る。 「……その夢」  声は低く、揺れない。 「終わるとき、どうなってるの」  コウタは少し考える。  記憶を手繰るように、ゆっくりと。  夢の終わりは、いつも曖昧で、  はっきり掴めたことがない。 「……わからない」 「気づいたら、終わってる」  言いながら、自分でも曖昧さをなぞる。 「でも、いつも」  そこで言葉が止まる。  引っかかりがある。 「なんだよ」  ハヤテが軽い調子のまま、続きを待つ。  コウタは少しだけ迷う。  言うほどのことかどうかを、一瞬だけ考えてから。 「最後、誰かいる気がする」  空気が、ほんのわずかに沈む。  静かに、重さだけが増える。 「顔は?」 「見えない」  即答だった。 「でも、音だけ残るんだよ」  さっきと同じ言葉。  同じ言い方。  繰り返されたことで、少しだけ輪郭が濃くなる。  ヒナタはそれを聞いて、  ほんのわずかに視線を落とす。  何かを考えたようで、  何も言わない。  そのまま、テーブルの上に残った水滴を指で払う。  小さな水の粒が、形を崩す。  音もなく、消える。  それを見て、コウタはふっと息を吐く。  理由は分からない。  ただ、張っていたものが少しだけ緩む。 「……やっぱ、損してる気がする」  さっきと同じ言葉を、もう一度口にする。  拾わないことのほうが楽だと分かっていても、  どこかで取りこぼしている気がする。  ハヤテが笑う。 「だから、得だって」 「気にしなきゃ、来ないもんもあるだろ」  あくまで軽く。  けれど、少しだけ様子を見ながら。  コウタは答えない。  言い返す言葉はあるのに、  それを選ばない。  ただ、グラスに手を伸ばして、  視界から外すように少しだけ遠ざける。  さっきの水面を、  もう一度見てしまうのを、避けるように。 【ずれている数】  別の日。  昼過ぎのファミレスは、夜とは違う種類の騒がしさで満ちていた。  家族連れの声、食器が触れる音、店員の足音。  どれも特別ではない。  どれも均一で、途切れない。  ひとつひとつを意識しなければ、ただの背景になる音。  コウタはドリンクバーの前に立つ。  カップを傾けて、氷を落とす。  カラン、と鳴る。  乾いた、はっきりした音。  それだけ。  遅れも、重なりもない。  そのことに、少しだけ安心する。  肩の力が抜ける。  余計なものは、何もついてこない。  席に戻ると、ハヤテがちょうどメニューを閉じるところだった。 「遅い」  顔も上げずに言う。 「混んでた」  コウタは適当に返す。  グラスをテーブルに置く。  音は、普通に鳴る。  ヒナタは窓の外を見ている。  昼の光をそのまま受け止めるように、  視線を動かさずに。  何も言わない。  何も拾っていないように見える。 「夢、まだ見る?」  ハヤテが何気なく聞く。  話題としては軽い。  昨日の続きというほどでもない調子。  コウタはストローに指をかける。  くるくると回す。 「……見てない」  一拍置く。 「多分」  その言い方に、自分でも引っかかる。  ヒナタは反応しない。  外を見たまま、  ほんの少しだけ視線を横に流す。 「多分ってなんだよ」  ハヤテが笑う。 「起きたとき、覚えてないだけかもしれない」  コウタはそれ以上続けない。  説明しようとすれば、  またあの感覚を引き寄せる気がした。  ストローを回す指だけが、  少しだけ速くなる。 「それ、終わったやつじゃねえの」  ハヤテが軽く言う。 「飽きたとか」 「そういうもんか?」 「大体そんなもんだろ」  コウタはグラスに口をつける。  氷が触れる。  冷たい。  普通だ。  温度も、音も、  どこにも違和感はない。  はずなのに。  一瞬だけ、音が遠くなる。  周りの声も、食器の音も、  ほんの少しだけ、後ろに下がる。  すぐに戻る。  何も変わらない。  今の一瞬があったことすら、  証明できないくらいに。  ヒナタがグラスを持つ。  音はしない。  持ち上げるときも、  置いたときも、鳴らない。  不自然ではない。  ただ、音がなかっただけ。  コウタはそれを見る。  何も言わない。 「なに」  ハヤテが気づく。  視線だけで問いかける。 「いや」  コウタは目を逸らす。  言葉にするほどのものじゃない。  言葉にした瞬間に、形になってしまう。  ヒナタはゆっくり水を飲む。  その動きは滑らかで、無駄がない。  見続ける理由がないのに、見続けてしまいそうになる。 「……やっぱさ」  ぽつりとこぼす。 「夢じゃなかった気がする」  自分でも、意味ははっきりしていない。  ただ、そういう言い方しかできない。  ハヤテが少しだけ眉を動かす。 「なにが」 「わかんないけど」  それ以上は続かない。言えない、の方が近い。  ヒナタがグラスを置く。  今度は、音が鳴る。  一度だけ。  遅れない。  重ならない。  ただ、それだけの音。  コウタはそれを聞く。  そのまま、自分のグラスには手を伸ばさない。  触れたくない理由は、はっきりしない。  店を出る。  外の空気は、少しだけ重い。  昼の明るさはそのままなのに、  音だけが薄い。  車の走る音も、人の話し声も、  どこか一枚遠い。 「帰る?」  ハヤテが軽く聞く。 「……うん」  コウタは短く答える。  それ以上の言葉は選ばない。  三人で歩き出す。  足音が揃う。  一定のリズム。  いつも通り。  そのはずなのに。  どこかで一歩だけ、ずれる。  わずかな違い。  気にしなければ、気づかない程度の。  誰も何も言わない。  ヒナタだけが、少し後ろを歩く。  距離を測るでもなく、  ただ自然に。何も気にしていない顔で。  交差点で止まる。  信号待ち。  車の音、人の声、風。  全部、普通にある。  コウタはそれを一つずつ確かめる。  聞こえているかどうかを、  確かめるみたいに。  大丈夫だと、思う。  思おうとする。 「なあ」  小さく声を出す。 「この前さ」  ヒナタは反応しない。  ただ、ほんの少しだけ視線を上げる。 「夢の話」  コウタは続ける。 「やっぱ、変だった」  ハヤテが横で「あー」とだけ返す。 「まだ引きずってんの?」 「……わかんないけど」  そこで言葉が止まる。  信号が変わる。  歩き出す。  横断歩道の白線を踏む。  一歩。  二歩。  三歩。  その間、  足音が、ひとつ多い気がする。  コウタは足を止める。  反射的に。  後ろを見る。  誰もいない。 「どうした」  ハヤテが振り返る。 「……いや」  コウタは首を振る。  言葉にするほどの確信がない。  また歩き出す。  今度は数えない。  数えないようにする。  ヒナタが横に並ぶ。  いつの間にか、前に出ている。 「気にするな」  短く言う。  コウタが顔を向ける。 「何を」  ヒナタは答えない。  そのまま前を見る。  少しだけ間を置いて、 「さっきの」  それ以上は続けない。  コウタは、何も返せない。  聞き返すこともできない。  ハヤテが軽く笑う。 「ほらな、考えすぎ」  いつも通りの調子。  それで会話は終わる。  終わるはずなのに。  コウタは一度だけ、後ろを見る。  さっきの場所。  横断歩道の白線。  何もない。  何もないのに。  踏んでいないはずの位置が、  ひとつだけ、わずかに濡れている気がした。  光のせいかもしれない。  見間違いかもしれない。  それ以上、確かめない。  ヒナタは振り返らない。 【手の中にあるもの】  その夜。  部屋は静かだった。  音がない、というより、  音が遠い。  窓は閉めている。  カーテンも引いている。  それでも、どこかで風の音がする。  隙間から入ってくるわけでもなく、  外の音として届くわけでもない。  ただ、そこにあるような音。  コウタはベースケースを壁に立てかける。  いつも通りの動き。  重さも、角度も、変わらない。  そのまま、ポケットに手を入れる。  鍵を出すつもりだった。  けれど、指先が止まる。  何かに触れる。  硬い。  小さくて、冷たい。  鍵とは違う感触。  ゆっくりと取り出す。  小さな石だった。  丸くて、少し黒い。  表面は滑らかで、  どこかだけ、わずかに欠けている。 「……なんで」  声は小さく、部屋に落ちる。  返ってくるものはない。  昼の店を思い出す。  テーブル。  グラス。  水面。  揺れていた光。  拾った覚えはない。  手に取った記憶もない。  ないはずなのに。  今、手の中にある。  しばらく見つめる。  意味を探そうとするほど、  何も見えてこない。  ただの石にしか見えない。  それ以上でも、それ以下でもない。  コウタは視線を切る。  それ以上考えないように。  テーブルに置く。  軽い音がする。  乾いた、小さな音。  それだけ。  それ以上は、何も起きない。  はずなのに。  部屋の音が、一段落ちる。  もともと静かだったはずの空間が、  さらに奥に沈む。  コウタは、石から目を外す。  見続けていると、  何かが起きる気がした。  理由はない。  ただ、そういう感覚だけがある。  スマホが震える。  短い振動。  現実の音。  それだけで、少しだけ意識が戻る。  画面を見る。  ヒナタからだった。 『帰った?』  短い文字。  余計な言葉がない。 『今』  コウタはすぐに返す。  既読がつく。  少しだけ間が空く。  その間が、やけに長く感じる。 『大丈夫?』  コウタは、石を見ない。  視界の端にも入れないようにする。  見ないまま、 『うん』  と打つ。  少しも迷わず、送る。 『ならいい』  それ以上は、来なかった。  来ないことが、少しだけ重い。  コウタはスマホを置く。  部屋を見渡す。  壁。  机。  ベースケース。  いつもと同じ配置。  何も変わっていない。  テーブルの上も、同じ。  さっきと同じはず。  同じはずなのに。  石の位置だけが、少し遠く感じる。  触っていない。  動かしていない。  置いたときの距離は覚えている。  それなのに、  今の方が離れて見える。  視線の問題かもしれない。  気のせいかもしれない。  コウタは近づかない。  確かめようとしない。  確かめた瞬間に、  何かが変わる気がした。  そのとき。  窓ガラスに、何かが映る。  黒い影。  一瞬だけ。  自分の動きとは、少しずれた位置。  コウタは振り返る。  反射的に。  何もいない。  空気も、配置も、変わらない。  もう一度、窓を見る。  自分だけが映っている。  それ以外は、何もない。  コウタは、石を見ない。  見ないまま、電気を消す。  部屋が暗くなる。  輪郭が溶けて、  物の境目が曖昧になる。  そのまま、動かない。  音を待つわけでもなく、  ただ、そこにいる。  暗くなったあとで。  さっき置いたはずの音が、  もう一度だけ、  遅れて鳴った気がした。 【触れないまま】  三人で店に入る。  外の光がそのまま流れ込んで、店内はやけに明るかった。  昼の空気が残ったまま、甘い匂いだけが重なっている。  ショーケースの前に並ぶ。  ガラスの中には、整えられたケーキが並んでいる。  白いクリームは均一で、  果物の色は不自然なくらい鮮やかで、  どれも同じように綺麗に見える。  触れなければ崩れない形。  選ばれなければ、そのまま残り続ける形。 「甘いのいく?」  ハヤテの声は軽い。  コウタは一瞬だけ止まる。  ほんのわずかな間。  言葉は決まっているのに、  その前に、何かを確かめるような時間が入る。  視線が、ガラスに触れる。  自分の姿が映る。  少し歪んだ輪郭。  光に滲んだ色。  その後ろに、  黒い影がある。 「ヒナ……タ……?」  無意識に、名前が出る。  けれど、すぐに違うと分かる。  輪郭が、わずかにずれている。  立ち方が違う。  重心の置き方が違う。  余計な力がどこにも入っていない。  整いすぎている。  ヒナタではない。  自分とも、少し違う。 「先、座ってるわ」  ハヤテが軽く言う。  ヒナタも何も言わずに動く。  二人はそのまま離れていく。  振り返らない。  コウタだけが、その場に残る。 「どれにしますか?」  店員の声。  近くで聞こえているはずなのに、  一瞬だけ距離がある。  コウタは視線を外す。  見続ける理由がないのに、  見続けてしまいそうになるから。 「……これで」  適当に指をさす。  名前は見ていない。  味も考えていない。  決めるという行為だけを終わらせる。  注文を伝え、支払いを済ませる。  トレイを受け取る。  手に重さが乗る。  それで、少しだけ現実に戻る。  顔を上げる。  ショーケースのガラスは、よく磨かれていた。  照明が柔らかく反射して、  ケーキの輪郭がわずかに滲んでいる。  その中に、自分が映る。  ――そのはずだった。  少しだけ、違う。  光のせいだと思う。  角度の問題だと思う。  視線を動かす。  それでも、変わらない。  向こうの自分は、そこにいる。  黒い髪のまま、静かに立っている。  揺れていない。  こちらの呼吸とは関係なく、  別の時間で立っているみたいに。  店内には音がある。  フォークの触れる音。  小さな笑い声。  ガラスケースを開け閉めする、軽い金属音。  全部、ちゃんと聞こえている。  なのに。  向こう側だけ、少し遠い。  ガラス一枚のはずなのに、  そこだけ音が届いていない。  目が合う。  逸らさない。  こちらが外すまで、  ずっと。  そのまま、口が動く。  何かを言っている。  音はない。  聞こえない。  それでも、  意味だけが落ちてくる。  ――それで、よかったの?  言葉として聞いたわけではない。  それでも、確かに理解できてしまう。  指先に、わずかに力が入る。  トレイが、ほんの少し揺れる。  皿が、かすかに触れる。  その音で、意識が戻る。  瞬きをする。  そこには、いつもの自分がいる。  赤い髪。  少しだけ崩れた立ち方。  トレイの重さを、ちゃんと受けている手。 「コウタ?」  少し離れた席から、ハヤテの声。  現実の距離。  顔を上げる。  手を振っている。  ヒナタは、すでに座っている。  何も変わっていない位置に。  コウタは一度だけ、ガラスを見る。  何もいない。  ただの反射。  それ以上でも、それ以下でもない。  そのまま歩き出す。  席に着く。  トレイを置く。  フォークを持つ。  動作はすべて、いつも通り。  甘い匂いも、  周りの音も、  全部、同じ。  何も変わっていない。  はずなのに。  さっきの言葉だけが、  どこにも消えずに残っている。  声だけが、まだ、内側に残っていた。 【選ばなかった方】  地方の商店街は、夕方を過ぎると急に静かになる。  昼のざわめきが、そのまま抜け落ちたように消えて、  通りには閉まりかけのシャッターと、点々と残る明かりだけが並んでいた。  人の気配が薄くなるほど、音は整理されていく。  遠くで何かが動く音。  看板が風に触れる音。  そして、足音だけが、やけに近くなる。  三人で歩いているはずなのに、  そのリズムがどこかで引っかかる。  揃っているようで、わずかに噛み合っていない。  ほんの半拍だけ、ずれている。  意識しなければ気づかない程度の、  けれど一度気づくと無視できないズレ。  コウタは、それを気のせいだと思った。  考えても仕方のない違和感だと、  意識の外へ押し出そうとする。  こういうものは、拾った時点で形になる。  形になれば、消えなくなる。  それでも、完全には消えないまま残る。  足の裏に、ほんのわずかに引っかかる感覚。  靴紐が解けていることに気づき、  コウタは一歩だけ遅れる。 「……ちょっと待って」  そう言ってしゃがみ込み、紐を結び直す。  見慣れた靴。  見慣れた動作。  何度も繰り返してきたはずなのに、  指に伝わる感触が、ほんの少しだけ遠い。  紐のざらつき。  締めたときの抵抗。  どれも確かにあるはずなのに、  一枚、何かを挟んで触れているような鈍さがある。  結び終えて軽く引く。  いつもなら、そこで「締まった」と分かるはずなのに、  その確かさが、どこか曖昧だった。  顔を上げようとしたとき。  どこかで、小さく鈴が鳴った気がした。 「迷っているな」  すぐ横から声がした。  距離の感覚が、一瞬だけ崩れる。  近い。  近いはずなのに、  そこに至るまでの過程が抜けている。  振り向くと、そこに人が立っている。  さっきまで何もなかった場所に、  影と同じ濃さで、自然に混ざるように存在していた。  最初からいたみたいに。  輪郭がはっきりしない。  光の中にあるのに、  どこかだけ光を受けていない。  コウタはゆっくり立ち上がり、  無意識に半歩だけ距離を取る。  その半歩で、ようやく呼吸が戻る。 「……なんですか」  声は出たが、  自分のものではないみたいに少し遅れる。  相手は答えない。  ただ、手を持ち上げる。  二枚のカードが差し出される。  裏返されたままのカード。  揃っているはずなのに、  ほんのわずかに位置がずれている。  左右で、呼吸が違うみたいに。 「そろそろ、選ぶか」  押しつけるでもなく、  ただそこに選択だけを置く声だった。  強制はない。  けれど、逃げ道もない。  コウタはカードを見る。  どちらも同じに見える。  違いはわからない。  裏返されているせいなのか、  それとも本当に差がないのか、判断がつかない。  どちらかを選べば、何かが決まる。  理由もなく、そう思う。  それは当たり外れではない。  もっと、戻れなくなる方向の選択。  選んだあとでは、  選ばなかった方に戻れなくなる感覚。  ――確かに、迷っている。  今も。  それ以前から、ずっと。  安定か。  それとも、戻れない方か。  言葉にした瞬間に、  どちらかへ傾いてしまいそうで、  コウタはその先を考えないようにする。  それでも。  指先だけが、わずかに前へ出る。  体より先に、選ぼうとしている。  周りの音が、少し遠い。  ハヤテとヒナタの足音も、  もう聞こえない。  自分の呼吸だけが、やけに近い。  さっきまで歩いていた道の続きなのに、  ここだけ切り取られて、  別の時間に置かれているみたいだった。  ほんの一瞬。  指先がカードの縁に触れる。  冷たい。  硬い。  確かに、そこにある。 「コウタ!」  少し先からハヤテの声が飛ぶ。  現実の音だった。  一気に距離が戻る。  空気がつながる。  音が流れ込む。  コウタはハッとして、すぐに手を引く。  何も持っていない。  何も選んでいない。  ――そのはずだ。 「……やめとく」  短く言って、その場を離れる。  足を踏み出した瞬間、  さっきまで止まっていた時間が、  遅れて動き出したような感覚があった。  通りの空気が戻る。  遠くでシャッターの下りる音がして、  どこかの店先から、微かな話し声が流れてくる。  さっきまでなかったはずの音が、  何事もなかったみたいに並び始める。  それでも。  一度切り離された感じだけが、  うまく戻らないまま残っている。  コウタは二人の背中を追う。  歩き出してから、数歩で追いつくはずだった。  けれど、その数歩がわずかに長く感じられる。  距離が、少しだけ伸びている。  詰めても、ぴたりと揃わない。  半歩分のズレ。  そのまま残り続ける距離。  そのとき、ポケットに小さな違和感を覚える。  布越しに、指先に触れる硬さ。  覚えのある感触。  コウタは、そこで初めて思い出す。  取り出す。  掌の上に、重さが乗る。  小さな黒い石が、そこにあった。  何も選ばなかったはずなのに、  何かだけが、まだ残っていた。 【呼ばれる方】  コウタは、わずかに歩幅を上げる。  さっきまで遠く感じていた二人の背中に、  少しずつ距離が詰まっていく。  数歩で追いつくはずの距離。  それなのに、  踏み出した分だけ、ほんの少しだけ遠くなる。  目に見えるほどではない。  けれど、確かに揃わない。  半拍だけ、遅れる。  それでも、もう一歩踏み出す。  もう一歩。  その繰り返しで、ようやく距離が揃う。  コウタは二人の横に並ぶ。  呼吸も、足音も、  今度はちゃんと重なる。  リズムが戻る。  さっきまでのズレが、なかったことになる。  ――はずだった。  その瞬間。  ヒナタがふと、足を止める。  振り返るわけでもなく、  前を見たまま。  動きだけが、切り離される。 「……鳴ってる」  小さな声だったが、  空気の流れがそこで止まる。  音の重なりが、わずかにほどける。 「なにが」  コウタが聞き返す。  さっき揃ったはずの呼吸が、  またわずかにずれる。  ヒナタはすぐには答えない。  聞いているというより、  確かめている間。 「音」 「またそれ?」  ハヤテが軽く笑う。  空気を戻すような言い方。  ただ、少しだけ足が遅れる。  一瞬だけ、止まりかけて。  それでも、完全には止まらない。 「……そっち」  ヒナタは言い切らないまま、前へ進む。 「おい」  コウタは思わず声をかける。  ヒナタは振り返らない。  距離は近いはずなのに、  どこかで噛み合わない。  手を伸ばせば届くはずの距離。  それなのに、  指先だけが少し足りない。 「ヒナタ」  声を重ねる。  音は届いているはずなのに、  届いた実感がない。  空気の中で、一度薄くなる。 「待てって」  歩幅を上げる。  追いつこうとする。  それでも、距離は一定のまま。  コウタは一瞬だけ迷い、後ろを振り返る。 「……ハヤテ」  距離は変わっていない。  呼べば届く位置。  それなのに、  視線が一度だけコウタの横を通り過ぎる。  何もないはずの場所を、  確かめるように。  ほんの一瞬だけ。  そこから遅れて、目が合う。  何事もなかったみたいに、  ハヤテは笑う。 「ん?」  いつも通りの声。  コウタは、何も言えない。  言葉にした瞬間に、  今の違和感が確定してしまいそうで。  ヒナタはすでに路地に入っている。  見覚えのない道。  明かりは少なく、  奥にいくほど暗くなる。  足音だけが残る。  不揃いなまま。  ヒナタは一つの店の前で止まる。 「……ここ」  確認するでもなく、  ただ辿り着いた場所みたいに。  そのまま扉に手をかける。 「おい――」  言いかけたところで、扉が開く。  鈴が鳴る。  小さく、乾いた音。  ひとつだけ。  ハヤテが笑う。 「行くか」  軽い声。  いつもと変わらない調子で、  そのまま中へ入っていく。  コウタは一拍だけ遅れる。  扉をくぐる。  鈴が鳴る。  さっきと同じ音。  そのあとで、  わずかに遅れて、もう一度鳴る。  ヒナタは止まらない。  足を緩めることもなく、  まっすぐ奥へ進んでいく。  店の中は静かだった。  外の通りとは切り離されたみたいに、音がひとつずつ薄く、遠い。  床を踏む感触だけが残る。  奥に、人。  視界の中に入っているのに、  存在として結びつくまでに遅れがある。  最初は輪郭が曖昧で、  そこに"いる"と認識するまでに、わずかな間があった。  ヒナタが、止まる。  その瞬間、空気がわずかに締まる。 「珍しい客だ」  静かな声。  ヒナタはすぐには答えない。  聞き返すでもなく、  否定するでもなく、  一拍だけ、間を置く。  その間に、何かを測っているように。 「……鳴ってる」  小さく言う。  確信ではない。  けれど、迷いもない。  店主はゆっくり頷く。 「そうか」  それだけ。  説明も、驚きもない。  最初からそこにあった流れを、  ただ受け取るみたいに。  ヒナタの視線が、ゆっくり動く。  視線の先が、先に決まっているみたいに。  棚の一角で止まる。  青い石のついたネックレスが、  光を受けて、わずかに揺れている。  ヒナタは動かない。  時間が、わずかに遅れる。  それから、  遅れて手が伸びる。 「……これだ」  確かめるように言う。  誰に向けるでもなく、  ただ言葉として落とす。  ヒナタは石を覗き込む。  距離を詰める。  近づけば分かると知っているみたいに。  コウタには、何も聞こえない。  店の中は静かなまま。  空気も、音も、  どこにも変化はない。  ただ、ヒナタだけが、そこに何かを受け取っている。  店主が静かに言う。 「気に入ったかい」  ヒナタは、否定も肯定もしない。  ただ、手にしたまま動かない。  離す理由がないように。 「持っていくといい」  店主の声は変わらない。  強制はない。  けれど、選択肢もない。  ヒナタは頷かない。  返事もしない。  それでも。  そのまま受け取る。  決めたわけではない。  けれど、もう決まっているみたいに。 【揃ってしまうもの】  店主の視線が動く。  ゆっくりと、迷いなく、  ハヤテの方へ向く。  選ばれているというより、  順番が最初から決まっているみたいに。 「……俺も?」  ハヤテは少しだけ手を止める。  迷っているようで、  その実、どこかで決まっているような間。  視線が一度だけ止まる。  黄色い石のついたシンプルなピアス。 「これかな」  店主は何も言わない。  肯定も否定もない。  その沈黙が、  それでいいという合図みたいにそこにある。  最後に、視線が動く。  コウタの方へ。  逃げ場を残さない速度で。  コウタは動かない。  棚も見ない。  視線を向ければ、  何かを選んでしまう気がした。  それでも、銀色のリングが目に留まる。  他のものと違って、  選ばれずに残った形。  石が外れ、中央にはくぼみだけ。  何かがあった痕跡だけが残っている。 「いくらですか?」  ハヤテが聞く。  現実に引き戻すような声。 「もう受け取っている」  店主が言う。  静かに、確定だけを置く声。  ハヤテがコウタを見る。  コウタは首を振る。  そんな覚えはない。  払った記憶も、  差し出したものも、思い当たらない。 「さっき、触れただろう」  その声を、どこかで聞いた気がした。  店主がリングを差し出す。  ゆっくりと。  逃げられない距離まで。  コウタは手を出さない。  視線だけがリングに落ちる。  触れていないのに、指先に感触が浮かぶ。  冷たさ。  わずかな硬さ。  思い出すというより、  そこに残っている感覚。  もう一度、差し出される。  距離が、ほんのわずかに縮まる。  コウタは躊躇う。  小さな重みが、少し遅れて掌に乗ってくる。  今、受け取ったのだと、あとから理解する。 「これで、揃う」 「……あ」  ポケットの中の、黒い石。  リングの、何かを待っているような、くぼみ。  指先が、確かめるように力を込める。  カチリ、と小さな音がした気がした。  ほんの一瞬、店主と視線が合う。 「……選んだな」  その言葉は、  誰に向けたものでもないみたいに落ちる。  終わりを告げるでもなく、  始まりを示すでもなく、  ただ、区切りだけがそこにある。  リングは、指にピタリとはまる。  さっきまで空だったくぼみに、  黒い石がはまっている。  隙間がない。  違和感がない。  最初からそこにあったみたいに、  指に馴染んでいる。  ハヤテが笑う。 「いいじゃん」  軽く言う。 「揃ってる」  その言葉に、迷いはない。  外に出ると、夜はさらに静まり返っていた。  さっきまであったはずの音が、  一段奥へ引いたように遠い。  三人で歩く。  足音が一定のリズムを刻む。  今度は揃っている。  ずれていない。  ヒナタが、ふと立ち止まる。  ほんの一瞬だけ。  確かめるみたいに。  それから、何もなかったみたいに歩き出す。  コウタはその横顔を見る。  ヒナタの指が、無意識に何かをなぞっている。  弦の上をなぞるみたいに。  音は出ていない。  けれど、動きだけが、はっきりと形になっている。  ヒナタの胸元には、青い石が光る。  わずかに揺れる。  呼吸とは別のリズムで。  コウタは、目を逸らす。  それ以上は見ない。 【最初からあった音】  スタジオは、いつも通りの明るさだった。  外の時間とは関係なく、  同じ温度で保たれている空間。  昼でも夜でも変わらない光。  窓のない箱の中で、時間だけが切り離されている。  アンプの電源音と、  わずかな機材のノイズだけが、静かに流れている。  コウタは、ケースからベースを出す。  ストラップをかける。  位置を整える。  何度も繰り返してきた動作。  迷いも、引っかかりもない。  弦を軽く弾く。  一音。  音は、いつも通り。  太さも、伸びも、変わらない。  何も変わっていない。  変わっていないはずの場所。  扉が開く。  ヒナタが入ってくる。  足音は小さい。  それでも、空気がわずかに動く。  何も言わない。  視線も合わせない。  コウタの方を見ないまま、  そのままギターを手に取る。  ストラップをかける。  チューニングもそこそこに、指を置く。  準備というより、  すでに続きに入っているみたいな動き。  ほんの一瞬だけ、止まる。  それから、弾く。  一音。  空気が、わずかに変わる。  音の輪郭が、  ほんの少しだけ、前に出る。  コウタの指が止まる。  今の音。  聞いたことがないはずなのに、  知っている。  どこで、ではない。  いつかでもない。  ただ、そこにあったものを、  今、触れた感覚。  ヒナタは止まらない。  そのまま続ける。  フレーズが繋がる。  流れていく。  迷いがない。  作っている音ではない。  なぞっている。  すでに置かれていたものを、  順番に拾い上げているだけのように。  コウタは、音を追う。  合わせる。  考える前に、指が動く。  自然に、合ってしまう。  初めてのはずなのに、  ズレない。  合わせようとする余地がない。  そのことの方が、違和感になる。  遅れて、ハヤテが入ってくる。  耳には、黄色い石のピアスが光っている。  光を受けて、わずかに揺れる。 「お、始まってる?」  いつもと変わらない調子。  スティックを回しながら、  そのまま椅子に座る。  ヒナタの音を聞く。  一拍だけ、間。  何かを測るような短い沈黙。  それから、何でもない顔で入る。  リズムが乗る。  重なる。  揃う。  あまりにも自然に。  三人の音が重なる。  その瞬間。  コウタは、わずかに指を止める。  何かが、噛み合いすぎている。  ベースでもない。  ギターでもない。  ドラムでもない。  どれにも当てはまらない。  それでも、どれにも外れていない。  音の隙間が、埋まっている。  本来なら残るはずの空白が、  最初からなかったみたいに消えている。  呼吸の余白。  間の余白。  それが、存在していない。  数えようとする。  三つ。  はずなのに。  どこかで一つ分だけ、  厚みがずれている。  増えているわけではない。  減っているわけでもない。  ただ、合っていない。  はっきりとは掴めない。  それでも、消えない。  曲が終わる。  余韻だけが残る。  音は止まっているのに、  空気の中にはまだ続きがある。  誰もすぐに動かない。  時間が少しだけ遅れる。  ハヤテが、ふっと笑う。 「いいじゃん」  軽い声。 「なんか、最初からあったみたい」  その言い方が、少しだけ正しい。  コウタは、何も言わない。  ヒナタを見る。  ヒナタは、指を止めたまま、  弦の上に手を置いている。  さっきと同じ位置。  わずかに、なぞる。  音は出ない。  でも、そこにまだ続きがあるみたいに。  触れれば鳴る、ではなく、  もう鳴っているものに触れているような動き。  コウタは、視線を落とす。  自分の手。  弦。  その先。  ポケットの中のリングが、  わずかに重い。  存在を主張するでもなく、  ただ、そこにある重さ。  あのとき、選ばなかったはずのもの。  それでも、持っている。  外した覚えも、しまった覚えもないのに。 「タイトルどうする?」  ハヤテが言う。  軽い調子で。  いつもの流れの中で。  ヒナタは、少しだけ間を置く。 「……まだ」  短く言う。  コウタは、その言葉を聞いて、  わずかに息を止める。  まだ、ではない。  たぶん。  そのとき。  スタジオの外を、誰かが歩く音がする。  足音。  一定のリズム。  コツ、コツ、と続く。  一拍、遅れて。  何かが、重なる。  同じリズムで、  少しだけ遅れて。  重なったはずなのに、  数えると合わない。  コウタだけが、顔を上げる。  音の方へ視線を向ける。  誰も気にしない。  ヒナタはギターを持ったまま。  ハヤテはスティックを回している。  外の音と、中の音。  本来なら分かれるはずのものが、  切れていない。  境目がない。  つながっている。  コウタは、何も言わない。  言えば、形になる気がした。  ただ、もう一度だけ弦に触れる。  さっきの音をなぞる。  ぴたりと合う。  ズレない。  最初から、そこにあったみたいに。  外の足音は、まだ続いている。  中の音と、同じ距離で。  区別がつかない。  つかないまま、重なっている。 【揃いすぎる音】  会場は、それほど大きくない。  天井も低く、音が逃げにくい箱だった。  壁に当たった音が、そのまま戻ってくる。  人の熱も、呼吸も、照明の温度も、狭い空間の中に少しずつ溜まっていく。  客のざわめきは、始まる直前になると、自然にひとつにまとまっていく。  笑い声。  小さな話し声。  足元で何かを動かす音。  ばらばらだったはずのものが、開演が近づくにつれて、少しずつ同じ方向を向く。  その流れは、いつもと同じだった。  特別な日ではない。  ただの一本。  ただのライブ。  ステージに上がる。  照明が落ちる。  暗転の中で、機材のランプだけが浮かぶ。  ヒナタは何も言わない。  ギターを持ったまま、いつもと同じ位置に立つ。  その立ち方は静かで、余計な力がない。  けれど、今日は少しだけ、そこに置かれているようにも見える。  コウタはベースを構えながら、一度だけ客席を見る。  暗くて、顔はよく見えない。  それでも、そこに"いる"数だけはわかる。  熱。  視線。  息をひそめる気配。  その密度が、いつもより少しだけ揃っている気がした。  最初の曲に入る。  いつも通り。  問題はない。  音も、流れも、すべて予定通りに進む。  ベースの位置も、ドラムの入りも、ギターの鳴りも、何も外れていない。  むしろ、よく合っている。  それが、少しだけ気になる。  数曲終わって、短い間が空く。  ハヤテがスティックを軽く回す。 「次、新しいやついく?」  軽い声。  観客には聞こえていない、三人だけの距離の声。  ヒナタは、わずかに頷く。  コウタは何も言わない。  でも、わかっている。  あの曲だ。  ヒナタが、指を置く。  あの日と同じ場所に。  ほんの一瞬、止まる。  考えている間ではない。  迷っている間でもない。  そこにあるものを、もう一度確かめるような間。  それから。  一音。  空気が、わずかに揃う。  音が広がるより先に、空間の方が整う。  客席のざわめきが、一拍分だけ遅れる。  それから、消える。  静かになったのではない。  揃ったのだと、コウタは思う。  弾きながら、客席の方を見る。  暗い。  でも、見える。  動きが、揃っている。  揺れ方。  呼吸。  視線。  全部が、同じタイミングで止まっている。  誰か一人ではない。  全体が、そうなっている。  ハヤテが入る。  リズムが重なる。  ぴたりと合う。  いつも以上に、正確に。  その正確さに、わずかに引っかかる。  合いすぎている。  ズレがない。  いつもなら、ほんの少しだけ残る揺れがある。  人が鳴らしているからこその、遅れや癖がある。  それが、今日は見つからない。  なのに。  数えようとすると、どこかで合わない。  三人のはずなのに、厚みだけがひとつ分ずれている。  増えているわけではない。  誰かが足されているわけでもない。  それでも、音の奥に、もう一枚ある。  はっきりとは掴めない。  それでも、消えない。  観客はそれを、違和感としてではなく、完成した音として受け取っている。  曲が進む。  止まらない。  ヒナタは迷わない。  最初から最後まで、すでに決まっているみたいに弾く。  その横顔に、表情はほとんどない。  ただ、指だけが動いている。  どこかから流れてくる音を、遅れずに拾っているみたいに。  コウタは、それに合わせる。  合わせられてしまう。  考える前に、指が動く。  どこにもズレがない。  サビに入る。  その瞬間。  客席の奥で、わずかに動くものがある。  人の動きではない。  けれど、そこに"立っている"。  客の隙間に紛れているのではなく、客席そのものの奥に重なっている。  ただ、いる。  コウタは目を逸らす。  見ない。  見れば、変わる気がした。  見なければ、まだ何も起きていないことにできる。  曲が終わる。  音が止まる。  余韻だけが残る。  その余韻が、少しだけ長い。  消えきらない。  アンプのノイズとも違う。  会場の反響とも違う。  音が終わったあとに、まだ音の形だけがそこに残っている。  拍手が起こる。  タイミングが、揃いすぎている。  一斉に始まり、一斉に止む。  誰かが合わせているわけではないのに、全部が同じ動きをする。  その正しさが、少し怖い。  ハヤテが笑う。 「いいじゃん」  軽い声。 「今日、めっちゃ揃ってる」  ヒナタは何も言わない。  ギターを持ったまま、指をわずかに動かす。  音は出ていない。  でも、まだ続きがあるみたいに。  弦に触れていないのに、そこだけが鳴っているみたいに。  コウタは、客席を見る。  さっきまであったはずの違和感が、もう見えない。  最初からいなかったみたいに、消えている。  暗い客席。  揃った視線。  整った沈黙。  何もおかしくない。  おかしくないことが、いちばん引っかかる。  ポケットの中のリングが、重い。  あの日と同じ重さ。  それ以上でも、それ以下でもない。  ただ、外せない重さ。  コウタは、小さく息を吐く。  違和感は、残ったまま。  それでも、  もう、外せない。 【残り続ける音】  ライブのあと、スタッフから映像データが共有された。  終演後の、いつも通りの流れ。  特別なことは何もない。  固定カメラの映像。  ライン録りの音。  現場で起きたことを、そのまま閉じ込めた記録。  ただ、それだけのはずだった。  コウタは自宅でそれを流す。  部屋は静かで、外の音もほとんど入らない。  壁に囲まれた、音が逃げない空間。  さっきまでいたライブハウスと、どこか似ている。  再生ボタンを押す。  わずかなクリック音。  それを合図に、画面が切り替わる。  映像が始まる。  ステージ。  照明。  客席。  すべて、見慣れた光景。  見てきたものと、ほとんど同じ。  最初の数曲は問題なかった。  音も映像も、  違和感はない。  バランスも良い。  ミスもない。  普通に、良い出来だと思う。  そのまま流す。  時間が進む。  例の曲に入る。  一瞬だけ、  画面の明るさが揺れる。  ほんのわずか。  気のせいで済ませられる程度の変化。  コウタは何も操作しない。  そのまま見る。  音が入る。  最初の一音。  コウタの指が止まる。  スピーカーから鳴っているはずなのに、  部屋の空気の方が、先に変わる。  音が届く前に、  空間がそれを受け入れているような感覚。  続く。  フレーズが流れる。  スタジオで弾いたときと同じ。  ライブで感じたものと同じ。  違和感も、そのまま。  音の奥に、もう一枚ある。  数えようとする。  三人。  のはずなのに。  どこかで一つ分だけ、厚みが合わない。  増えているわけではない。  それでも、重なっている。  消えていない。  全部と噛み合っている。  そのこと自体が、少しだけおかしい。  コウタは、再生を止めようとして、  指を止める。  画面の端。  客席の奥。  暗いままのはずの場所に、  一つだけ、形がある。  人影。  動かない。  観客の誰とも重ならない位置。  それなのに、そこに"いる"。  誰も気づいていない。  最初から背景の一部だったみたいに。  顔は見えない。  距離もある。  それでも。  姿勢だけが、やけにわかる。  無駄がない。  揺れない。  ブレがない。  ただ立っているだけで、  全部が揃っている。  コウタは、少しだけ目を細める。  画面の光が変わる。  見え方が、わずかにずれる。  髪の色。  黒い。  照明の反射ではない。  影の落ち方でもない。  その色だけが、  他と混ざらずに残っている。  動きがない。  呼吸の揺れもない。  それでも、  そこにいる。  画面の中の音と、完全に重なっている。  映像の外ではなく、  音の中に立っているみたいに。  コウタは、視線を逸らせない。  そのまま、  無意識に手が動く。  髪に触れる。  整えるように、軽くなぞる。  いつもの癖。  指先の感触が、少しだけ違う気がする。  髪の流れ。  触れたときの抵抗。  わずかに、ずれている。  そこで、止まる。  ゆっくりと手を下ろす。  もう一度、画面を見る。  同じ映像が流れている。  人影は、動いていない。  最初からそうだったみたいに。  変化はない。  何も起きていない。  はずなのに。  コウタは、再生を止める。  画面が暗くなる。  光が消える。  部屋が静かになる。  何も鳴っていない。  スピーカーも、空気も、止まっている。  はずなのに。  さっきの音が、残っている。  頭の中ではない。  記憶でもない。  空間のどこかに、そのまま続いている感じがする。  音が消えきらずに、  そこに留まっている。  コウタは、ゆっくりとポケットに手を入れる。  リングの石に触れる。  指先に、重さが返ってくる。  冷たいはずなのに、  わずかに温度がある。  体温とも違う、残り方。  あの日と同じ重さ。  変わっていない。  それなのに、  少しだけ馴染んでいる。  スマホに通知が入る。  短い振動。  現実の音。  ハヤテからだった。 「さっきの映像見た?」  少し間があって、もう一通届く。 「なんかさ」  そこで一度切れる。  入力の途中で止まったみたいに。  それから。 「音、いい感じに増えてない?」  コウタは、画面を見たまま止まる。  指も、呼吸も、そのまま。  返信はしない。  できない。  何を返せばいいのか、  言葉が浮かばない。  部屋は静かだ。  何も変わっていない。  机も、壁も、光も、  すべてそのまま。  それでも。  音は、まだ続いている。  消えていない。  終わっていない。 【揃いきる前】  音は続いている。  揃っている。  ズレない。  それはもう、確認するまでもない。  コウタは、ゆっくりと視線を上げる。  ドアの方。  さっき見えた影。  もう一度、確かめるみたいに。  ノブが、わずかに動く。  開く。  スタッフが顔を出す。 「すみません、次――」  そこで言葉が止まる。  一瞬だけ、視線がコウタの横にずれる。  ほんのわずかに。  それから、自然に戻る。 「……あ、大丈夫です」  何もなかったみたいに続ける。  ドアが閉まる。  音が、ぴたりと合う。  コウタは動かない。  今の視線。  ズレていた。  確実に。  自分を見ていなかった。  その隣。  そこに、何かがある前提で。  コウタは、ゆっくりと横を見る。  黒い髪。  立っている。  さっきと同じ距離で。  同じ姿勢で。  同じ高さで。  そこにいる。  消えない。  反射ではない。  音の中でもない。  ただ、そこにいる。  コウタは、息を止める。  理解が、少し遅れて追いつく。  ――見えている。  自分だけじゃない。  普通に。  最初からいたみたいに。  ヒナタは止まらない。  ハヤテも、何も変わらない。  音はそのまま続く。  揃っている。  黒い方も、同じように弾いている。  コウタと、同じ音を完全に重ねて。  ゆっくりと視線を落とす。  自分の手。  弦の上。  その隣。  もう一つの手が、同じ位置にある。  触れている。  先に。  正確に。  コウタは、何も言わない。  言えない。  そのまま、音をなぞる。  ぴたりと合う。  ズレない。  もう、  どちらが弾いているのか分からないまま。 【最初から、そうだったみたいに】  音は、止まらない。  コウタの指が動く前に、  次の位置がそこにある。  それはもう、確かめるまでもない。  ヒナタは変わらず弾き続けているし、  ハヤテも、止めずにリズムを刻んでいる。  いつも通りのはずの時間。  それでも、  コウタの中だけが、わずかに遅れている。  ほんの半拍。  その遅れを埋めるように、  もう一つの動きが先にある。  視線を上げる。  アンプの反射。  黒髪の自分。  同じ高さで、同じ姿勢で、  そこに立っている。  消えない。  コウタは、何も言わない。  ただ、その動きを見る。  一度だけ指を止める。  止めたはずの音が、止まらない。  そのまま続いている。  わずかに。  でも、確かに。  ヒナタは止まらない。  ハヤテも止めない。  音は欠けない。  むしろ、  さっきよりも整っている。  コウタは、自分の手を見る。  動いていない。  それでも音は揃っている。  そこで、分かる。  ――逆だ。  自分が遅れているんじゃない。  あれが、先にある。  揺れのない方。  迷いのない方。  選ばなかった方。  それに、  自分が追いついている。  もし、俺の音が。  このまま、なくなっても。  コウタは、ゆっくりと息を吐く。  止める理由は、浮かばない。  外す理由も、見つからない。  ヒナタの音と、  ハヤテのリズムと、  黒髪の自分の低い音が、  同じものとして重なっていく。  コウタは、顔を上げない。  確かめようともしない。  そのまま、音をなぞる。  ぴたりと合う。  ズレない。  最初から、そうだったみたいに。  選ばなかったはずの音が、一歩先に鳴る。  その中に、意味だけが落ちてくる。  ――それで、よかったの?  コウタは、ゆっくりと息を吐く。  それ以上は、確かめない。  理由も、まだ考えない。  考えれば、形になってしまう気がした。  まだ、触れずに置いておく。  今は、疲れているだけだ。