うまく言えなかったこと。
伝えきれなかった距離。
そのままにした感情が、少しだけ残っている。
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SWEETs 2026 Spring バックステージパス
???
SWEETs 2026 Spring 色紙
SWEETs 2026 Springの記念に残された、ヒナタの色紙。
多くは語らない文字と、少しだけ長く払われたサインが残っている。
▶ 2026 Summer
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SWEETs 2026 Summer バックステージパス
???
another
short story
ひとつ多い音
2026
【残っている音】
夜のファミレスは、時間だけがゆっくりと流れているようだった。
窓の外はすでに暗く、街灯の光がガラスにぼんやりと滲んでいる。
店内には数組の客しかおらず、どの席も互いに干渉しない距離を保っていた。
注文を終え、料理が来るまでの、わずかな間。
冷房の風が一定のリズムで天井を撫で、
グラスの中で氷が、時折、乾いた音を立てる。
コウタは、そのグラスを指で軽く押した。
水面が揺れる。
わずかな波紋が広がり、すぐに収まる。
それを、もう一度繰り返す。
理由は特にない。
ただ、手を止めると、考えがまとまりすぎる気がした。
「最近さ、変な夢ばっかり見る気がして」
言葉は、静かに落ちた。
誰かに聞いてほしいわけでも、
はっきり伝えたいわけでもない。
ただ、黙っているには少しだけ重い。
「なにそれ」
ハヤテはストローを口にくわえたまま、顔も上げずに返す。
興味がないわけではないが、深く踏み込む気もない。
「同じ場所なんだよな、毎回」
コウタは視線を落としたまま続ける。
夢の中の風景を思い出そうとすると、
輪郭だけが先に浮かび、細部はすぐに溶けていく。
「知らないはずなのに、知ってる感じがしてさ」
言いながら、自分でも納得できていないことが分かる。
説明がつかないものを、
言葉にしようとしている感覚。
「疲れてんのかな……」
原因らしいものを一応置いてみる。
けれど、それで終わる話ではないことも、どこかで分かっている。
「夏だしな」
ハヤテはすぐに返す。
ヒナタは、窓の外を見たまま。
「まあ、あるかもな」
遅れて、短く返す。
「幽霊的なやつ?」
ハヤテが、軽く笑いながら言う。
「わかんない、なんか……」
コウタは言葉を切る。
一度、考えるのをやめるように。
それでも、残る感覚がある。
「音だけ残ってる、みたいな」
その瞬間、空気がわずかに止まる。
何かが起きたわけではない。
ただ、さっきまでと同じではない。
「霊感、強いとか?」
ハヤテが肩をすくめる。
「そういうの、ある?」
コウタは顔を上げないまま返す。
自分の言葉を、外側から確認するように。
「俺は多分ねえな」
ハヤテは短く言って、ストローを指で回す。
ヒナタは、すぐには口を開かない。
会話を受け取ってから、
ほんの一拍だけ遅れて考える。
何を言うかではなく、
どこまで言うかを測るような間。
「……見えてても、多分気にしない」
強くも弱くもない声。
ただ、揺れていない。
コウタが顔を上げる。
「どういう意味?」
今度は、はっきりと聞く。
ヒナタは少しだけ目を細める。
「気にした時点で、そっちに寄るだろ」
当たり前のことのように言う。
説明はない。
補足もない。
コウタの指が止まる。
グラスの中の水は、まだわずかに揺れている。
「……寄るって、なにに」
問いは小さいが、引っかかりは消えない。
ヒナタは答えない。
代わりに、グラスの縁に触れる。
指先で、水面をなぞる。
その動きはゆっくりで、無意識に近い。
波紋が消える。
ぴたりと、止まる。
それ以上、何も起きない。
音も、変化もない。
ただ、止まっただけ。
ヒナタは、その水面を一瞬だけ見ている。
確かめるみたいに。
それから、何もなかったように指を離した。
その動作を見て、コウタだけが、わずかに顔をしかめる。
理由は分からない。
分からないまま、残る違和感。
「なんか損してる気がする」
小さく息を吐く。
拾わない選択をしていることが、
何かを見逃している気がする。
「むしろ得だろ」
ハヤテがすぐに返す。
迷いなく。
「拾わなくていいもん、拾わないで済むし」
軽く言い切る。
そこに疑いはない。
コウタは曖昧に頷く。
納得はしていない。
けれど、否定もしない。
そのまま、もう一度グラスを見る。
さっき止まったはずの水面が、
ほんのわずかに、
遅れて揺れた気がした。
誰も触れていないのに。
【遅れてくる音】
コウタは、グラスから目を離した。
さっき見た揺れを、これ以上追わないように。
見続けてしまえば、理由を探してしまう気がした。
意味を与えた瞬間に、戻れなくなる。
一度だけ、ゆっくり瞬きをする。
「……気のせいだよな」
誰に向けたわけでもない声が、テーブルの上に落ちる。
「そういうのは大体、気のせいだろ」
ハヤテが軽く返す。
それで終わるはずの会話だった。
そこで切れていれば、何も残らなかったはずだった。
ヒナタが、グラスを置く。
小さく、乾いた音が鳴る。
その音が、ほんのわずかに遅れて聞こえた気がして、
コウタの肩が、無意識に強張る。
遅れた、というより、
あとから追いついてきたような感覚。
今の一瞬が、二重に重なったような。
ふと、視線が合う。ヒナタは、何も言わない。
「……なあ」
思わず口を開く。
止めるより先に、言葉が出る。
「さっきの音」
「さっき?」
ハヤテが首を傾げる。
反応はいつも通りで、
そこに引っかかりはない。
「いや……なんでもない」
言い切って、引っ込める。
口にした瞬間に、形になる気がした。
ヒナタは何も言わない。
ただ、テーブルの上を一度だけ指で叩く。
コツ、と音が鳴る。
短く、乾いた音。
今度は、ちゃんと一度だけ。
遅れも、重なりもない。
何もおかしくない。
何も起きていない。
はずなのに。
コウタの中にだけ、
さっきの違和感が残っている。
音が、少しだけ遅れて、
あとから追いついてくる感覚。
消えきらずに、
そこに留まっているみたいな。
「……やっぱ、変だわ」
小さく呟く。
「夢の続き、起きてても見てるみたいな感じする」
言葉にしても、ぴったりはこない。
それでも、近い形を選ぶしかない。
ハヤテは少しだけ黙る。
すぐに返さず、
コウタの様子を一度だけ見る。
「それ、寝不足じゃねえの」
軽く言う。
いつもの調子に戻しながら。
それ以上踏み込まないための言い方。
ヒナタが、ふとコウタを見る。
「……その夢」
声は低く、揺れない。
「終わるとき、どうなってるの」
コウタは少し考える。
記憶を手繰るように、ゆっくりと。
夢の終わりは、いつも曖昧で、
はっきり掴めたことがない。
「……わからない」
「気づいたら、終わってる」
言いながら、自分でも曖昧さをなぞる。
「でも、いつも」
そこで言葉が止まる。
引っかかりがある。
「なんだよ」
ハヤテが軽い調子のまま、続きを待つ。
コウタは少しだけ迷う。
言うほどのことかどうかを、一瞬だけ考えてから。
「最後、誰かいる気がする」
空気が、ほんのわずかに沈む。
静かに、重さだけが増える。
「顔は?」
「見えない」
即答だった。
「でも、音だけ残るんだよ」
さっきと同じ言葉。
同じ言い方。
繰り返されたことで、少しだけ輪郭が濃くなる。
ヒナタはそれを聞いて、
ほんのわずかに視線を落とす。
何かを考えたようで、
何も言わない。
そのまま、テーブルの上に残った水滴を指で払う。
小さな水の粒が、形を崩す。
音もなく、消える。
それを見て、コウタはふっと息を吐く。
理由は分からない。
ただ、張っていたものが少しだけ緩む。
「……やっぱ、損してる気がする」
さっきと同じ言葉を、もう一度口にする。
拾わないことのほうが楽だと分かっていても、
どこかで取りこぼしている気がする。
ハヤテが笑う。
「だから、得だって」
「気にしなきゃ、来ないもんもあるだろ」
あくまで軽く。
けれど、少しだけ様子を見ながら。
コウタは答えない。
言い返す言葉はあるのに、
それを選ばない。
ただ、グラスに手を伸ばして、
視界から外すように少しだけ遠ざける。
さっきの水面を、
もう一度見てしまうのを、避けるように。
【ずれている数】
別の日。
昼過ぎのファミレスは、夜とは違う種類の騒がしさで満ちていた。
家族連れの声、食器が触れる音、店員の足音。
どれも特別ではない。
どれも均一で、途切れない。
ひとつひとつを意識しなければ、ただの背景になる音。
コウタはドリンクバーの前に立つ。
カップを傾けて、氷を落とす。
カラン、と鳴る。
乾いた、はっきりした音。
それだけ。
遅れも、重なりもない。
そのことに、少しだけ安心する。
肩の力が抜ける。
余計なものは、何もついてこない。
席に戻ると、ハヤテがちょうどメニューを閉じるところだった。
「遅い」
顔も上げずに言う。
「混んでた」
コウタは適当に返す。
グラスをテーブルに置く。
音は、普通に鳴る。
ヒナタは窓の外を見ている。
昼の光をそのまま受け止めるように、
視線を動かさずに。
何も言わない。
何も拾っていないように見える。
「夢、まだ見る?」
ハヤテが何気なく聞く。
話題としては軽い。
昨日の続きというほどでもない調子。
コウタはストローに指をかける。
くるくると回す。
「……見てない」
一拍置く。
「多分」
その言い方に、自分でも引っかかる。
ヒナタは反応しない。
外を見たまま、
ほんの少しだけ視線を横に流す。
「多分ってなんだよ」
ハヤテが笑う。
「起きたとき、覚えてないだけかもしれない」
コウタはそれ以上続けない。
説明しようとすれば、
またあの感覚を引き寄せる気がした。
ストローを回す指だけが、
少しだけ速くなる。
「それ、終わったやつじゃねえの」
ハヤテが軽く言う。
「飽きたとか」
「そういうもんか?」
「大体そんなもんだろ」
コウタはグラスに口をつける。
氷が触れる。
冷たい。
普通だ。
温度も、音も、
どこにも違和感はない。
はずなのに。
一瞬だけ、音が遠くなる。
周りの声も、食器の音も、
ほんの少しだけ、後ろに下がる。
すぐに戻る。
何も変わらない。
今の一瞬があったことすら、
証明できないくらいに。
ヒナタがグラスを持つ。
音はしない。
持ち上げるときも、
置いたときも、鳴らない。
不自然ではない。
ただ、音がなかっただけ。
コウタはそれを見る。
何も言わない。
「なに」
ハヤテが気づく。
視線だけで問いかける。
「いや」
コウタは目を逸らす。
言葉にするほどのものじゃない。
言葉にした瞬間に、形になってしまう。
ヒナタはゆっくり水を飲む。
その動きは滑らかで、無駄がない。
見続ける理由がないのに、見続けてしまいそうになる。
「……やっぱさ」
ぽつりとこぼす。
「夢じゃなかった気がする」
自分でも、意味ははっきりしていない。
ただ、そういう言い方しかできない。
ハヤテが少しだけ眉を動かす。
「なにが」
「わかんないけど」
それ以上は続かない。言えない、の方が近い。
ヒナタがグラスを置く。
今度は、音が鳴る。
一度だけ。
遅れない。
重ならない。
ただ、それだけの音。
コウタはそれを聞く。
そのまま、自分のグラスには手を伸ばさない。
触れたくない理由は、はっきりしない。
店を出る。
外の空気は、少しだけ重い。
昼の明るさはそのままなのに、
音だけが薄い。
車の走る音も、人の話し声も、
どこか一枚遠い。
「帰る?」
ハヤテが軽く聞く。
「……うん」
コウタは短く答える。
それ以上の言葉は選ばない。
三人で歩き出す。
足音が揃う。
一定のリズム。
いつも通り。
そのはずなのに。
どこかで一歩だけ、ずれる。
わずかな違い。
気にしなければ、気づかない程度の。
誰も何も言わない。
ヒナタだけが、少し後ろを歩く。
距離を測るでもなく、
ただ自然に。何も気にしていない顔で。
交差点で止まる。
信号待ち。
車の音、人の声、風。
全部、普通にある。
コウタはそれを一つずつ確かめる。
聞こえているかどうかを、
確かめるみたいに。
大丈夫だと、思う。
思おうとする。
「なあ」
小さく声を出す。
「この前さ」
ヒナタは反応しない。
ただ、ほんの少しだけ視線を上げる。
「夢の話」
コウタは続ける。
「やっぱ、変だった」
ハヤテが横で「あー」とだけ返す。
「まだ引きずってんの?」
「……わかんないけど」
そこで言葉が止まる。
信号が変わる。
歩き出す。
横断歩道の白線を踏む。
一歩。
二歩。
三歩。
その間、
足音が、ひとつ多い気がする。
コウタは足を止める。
反射的に。
後ろを見る。
誰もいない。
「どうした」
ハヤテが振り返る。
「……いや」
コウタは首を振る。
言葉にするほどの確信がない。
また歩き出す。
今度は数えない。
数えないようにする。
ヒナタが横に並ぶ。
いつの間にか、前に出ている。
「気にするな」
短く言う。
コウタが顔を向ける。
「何を」
ヒナタは答えない。
そのまま前を見る。
少しだけ間を置いて、
「さっきの」
それ以上は続けない。
コウタは、何も返せない。
聞き返すこともできない。
ハヤテが軽く笑う。
「ほらな、考えすぎ」
いつも通りの調子。
それで会話は終わる。
終わるはずなのに。
コウタは一度だけ、後ろを見る。
さっきの場所。
横断歩道の白線。
何もない。
何もないのに。
踏んでいないはずの位置が、
ひとつだけ、わずかに濡れている気がした。
光のせいかもしれない。
見間違いかもしれない。
それ以上、確かめない。
ヒナタは振り返らない。
【手の中にあるもの】
その夜。
部屋は静かだった。
音がない、というより、
音が遠い。
窓は閉めている。
カーテンも引いている。
それでも、どこかで風の音がする。
隙間から入ってくるわけでもなく、
外の音として届くわけでもない。
ただ、そこにあるような音。
コウタはベースケースを壁に立てかける。
いつも通りの動き。
重さも、角度も、変わらない。
そのまま、ポケットに手を入れる。
鍵を出すつもりだった。
けれど、指先が止まる。
何かに触れる。
硬い。
小さくて、冷たい。
鍵とは違う感触。
ゆっくりと取り出す。
小さな石だった。
丸くて、少し黒い。
表面は滑らかで、
どこかだけ、わずかに欠けている。
「……なんで」
声は小さく、部屋に落ちる。
返ってくるものはない。
昼の店を思い出す。
テーブル。
グラス。
水面。
揺れていた光。
拾った覚えはない。
手に取った記憶もない。
ないはずなのに。
今、手の中にある。
しばらく見つめる。
意味を探そうとするほど、
何も見えてこない。
ただの石にしか見えない。
それ以上でも、それ以下でもない。
コウタは視線を切る。
それ以上考えないように。
テーブルに置く。
軽い音がする。
乾いた、小さな音。
それだけ。
それ以上は、何も起きない。
はずなのに。
部屋の音が、一段落ちる。
もともと静かだったはずの空間が、
さらに奥に沈む。
コウタは、石から目を外す。
見続けていると、
何かが起きる気がした。
理由はない。
ただ、そういう感覚だけがある。
スマホが震える。
短い振動。
現実の音。
それだけで、少しだけ意識が戻る。
画面を見る。
ヒナタからだった。
『帰った?』
短い文字。
余計な言葉がない。
『今』
コウタはすぐに返す。
既読がつく。
少しだけ間が空く。
その間が、やけに長く感じる。
『大丈夫?』
コウタは、石を見ない。
視界の端にも入れないようにする。
見ないまま、
『うん』
と打つ。
少しも迷わず、送る。
『ならいい』
それ以上は、来なかった。
来ないことが、少しだけ重い。
コウタはスマホを置く。
部屋を見渡す。
壁。
机。
ベースケース。
いつもと同じ配置。
何も変わっていない。
テーブルの上も、同じ。
さっきと同じはず。
同じはずなのに。
石の位置だけが、少し遠く感じる。
触っていない。
動かしていない。
置いたときの距離は覚えている。
それなのに、
今の方が離れて見える。
視線の問題かもしれない。
気のせいかもしれない。
コウタは近づかない。
確かめようとしない。
確かめた瞬間に、
何かが変わる気がした。
そのとき。
窓ガラスに、何かが映る。
黒い影。
一瞬だけ。
自分の動きとは、少しずれた位置。
コウタは振り返る。
反射的に。
何もいない。
空気も、配置も、変わらない。
もう一度、窓を見る。
自分だけが映っている。
それ以外は、何もない。
コウタは、石を見ない。
見ないまま、電気を消す。
部屋が暗くなる。
輪郭が溶けて、
物の境目が曖昧になる。
そのまま、動かない。
音を待つわけでもなく、
ただ、そこにいる。
暗くなったあとで。
さっき置いたはずの音が、
もう一度だけ、
遅れて鳴った気がした。
【触れないまま】
三人で店に入る。
外の光がそのまま流れ込んで、店内はやけに明るかった。
昼の空気が残ったまま、甘い匂いだけが重なっている。
ショーケースの前に並ぶ。
ガラスの中には、整えられたケーキが並んでいる。
白いクリームは均一で、
果物の色は不自然なくらい鮮やかで、
どれも同じように綺麗に見える。
触れなければ崩れない形。
選ばれなければ、そのまま残り続ける形。
「甘いのいく?」
ハヤテの声は軽い。
コウタは一瞬だけ止まる。
ほんのわずかな間。
言葉は決まっているのに、
その前に、何かを確かめるような時間が入る。
視線が、ガラスに触れる。
自分の姿が映る。
少し歪んだ輪郭。
光に滲んだ色。
その後ろに、
黒い影がある。
「ヒナ……タ……?」
無意識に、名前が出る。
けれど、すぐに違うと分かる。
輪郭が、わずかにずれている。
立ち方が違う。
重心の置き方が違う。
余計な力がどこにも入っていない。
整いすぎている。
ヒナタではない。
自分とも、少し違う。
「先、座ってるわ」
ハヤテが軽く言う。
ヒナタも何も言わずに動く。
二人はそのまま離れていく。
振り返らない。
コウタだけが、その場に残る。
「どれにしますか?」
店員の声。
近くで聞こえているはずなのに、
一瞬だけ距離がある。
コウタは視線を外す。
見続ける理由がないのに、
見続けてしまいそうになるから。
「……これで」
適当に指をさす。
名前は見ていない。
味も考えていない。
決めるという行為だけを終わらせる。
注文を伝え、支払いを済ませる。
トレイを受け取る。
手に重さが乗る。
それで、少しだけ現実に戻る。
顔を上げる。
ショーケースのガラスは、よく磨かれていた。
照明が柔らかく反射して、
ケーキの輪郭がわずかに滲んでいる。
その中に、自分が映る。
――そのはずだった。
少しだけ、違う。
光のせいだと思う。
角度の問題だと思う。
視線を動かす。
それでも、変わらない。
向こうの自分は、そこにいる。
黒い髪のまま、静かに立っている。
揺れていない。
こちらの呼吸とは関係なく、
別の時間で立っているみたいに。
店内には音がある。
フォークの触れる音。
小さな笑い声。
ガラスケースを開け閉めする、軽い金属音。
全部、ちゃんと聞こえている。
なのに。
向こう側だけ、少し遠い。
ガラス一枚のはずなのに、
そこだけ音が届いていない。
目が合う。
逸らさない。
こちらが外すまで、
ずっと。
そのまま、口が動く。
何かを言っている。
音はない。
聞こえない。
それでも、
意味だけが落ちてくる。
――それで、よかったの?
言葉として聞いたわけではない。
それでも、確かに理解できてしまう。
指先に、わずかに力が入る。
トレイが、ほんの少し揺れる。
皿が、かすかに触れる。
その音で、意識が戻る。
瞬きをする。
そこには、いつもの自分がいる。
赤い髪。
少しだけ崩れた立ち方。
トレイの重さを、ちゃんと受けている手。
「コウタ?」
少し離れた席から、ハヤテの声。
現実の距離。
顔を上げる。
手を振っている。
ヒナタは、すでに座っている。
何も変わっていない位置に。
コウタは一度だけ、ガラスを見る。
何もいない。
ただの反射。
それ以上でも、それ以下でもない。
そのまま歩き出す。
席に着く。
トレイを置く。
フォークを持つ。
動作はすべて、いつも通り。
甘い匂いも、
周りの音も、
全部、同じ。
何も変わっていない。
はずなのに。
さっきの言葉だけが、
どこにも消えずに残っている。
声だけが、まだ、内側に残っていた。
【選ばなかった方】
地方の商店街は、夕方を過ぎると急に静かになる。
昼のざわめきが、そのまま抜け落ちたように消えて、
通りには閉まりかけのシャッターと、点々と残る明かりだけが並んでいた。
人の気配が薄くなるほど、音は整理されていく。
遠くで何かが動く音。
看板が風に触れる音。
そして、足音だけが、やけに近くなる。
三人で歩いているはずなのに、
そのリズムがどこかで引っかかる。
揃っているようで、わずかに噛み合っていない。
ほんの半拍だけ、ずれている。
意識しなければ気づかない程度の、
けれど一度気づくと無視できないズレ。
コウタは、それを気のせいだと思った。
考えても仕方のない違和感だと、
意識の外へ押し出そうとする。
こういうものは、拾った時点で形になる。
形になれば、消えなくなる。
それでも、完全には消えないまま残る。
足の裏に、ほんのわずかに引っかかる感覚。
靴紐が解けていることに気づき、
コウタは一歩だけ遅れる。
「……ちょっと待って」
そう言ってしゃがみ込み、紐を結び直す。
見慣れた靴。
見慣れた動作。
何度も繰り返してきたはずなのに、
指に伝わる感触が、ほんの少しだけ遠い。
紐のざらつき。
締めたときの抵抗。
どれも確かにあるはずなのに、
一枚、何かを挟んで触れているような鈍さがある。
結び終えて軽く引く。
いつもなら、そこで「締まった」と分かるはずなのに、
その確かさが、どこか曖昧だった。
顔を上げようとしたとき。
どこかで、小さく鈴が鳴った気がした。
「迷っているな」
すぐ横から声がした。
距離の感覚が、一瞬だけ崩れる。
近い。
近いはずなのに、
そこに至るまでの過程が抜けている。
振り向くと、そこに人が立っている。
さっきまで何もなかった場所に、
影と同じ濃さで、自然に混ざるように存在していた。
最初からいたみたいに。
輪郭がはっきりしない。
光の中にあるのに、
どこかだけ光を受けていない。
コウタはゆっくり立ち上がり、
無意識に半歩だけ距離を取る。
その半歩で、ようやく呼吸が戻る。
「……なんですか」
声は出たが、
自分のものではないみたいに少し遅れる。
相手は答えない。
ただ、手を持ち上げる。
二枚のカードが差し出される。
裏返されたままのカード。
揃っているはずなのに、
ほんのわずかに位置がずれている。
左右で、呼吸が違うみたいに。
「そろそろ、選ぶか」
押しつけるでもなく、
ただそこに選択だけを置く声だった。
強制はない。
けれど、逃げ道もない。
コウタはカードを見る。
どちらも同じに見える。
違いはわからない。
裏返されているせいなのか、
それとも本当に差がないのか、判断がつかない。
どちらかを選べば、何かが決まる。
理由もなく、そう思う。
それは当たり外れではない。
もっと、戻れなくなる方向の選択。
選んだあとでは、
選ばなかった方に戻れなくなる感覚。
――確かに、迷っている。
今も。
それ以前から、ずっと。
安定か。
それとも、戻れない方か。
言葉にした瞬間に、
どちらかへ傾いてしまいそうで、
コウタはその先を考えないようにする。
それでも。
指先だけが、わずかに前へ出る。
体より先に、選ぼうとしている。
周りの音が、少し遠い。
ハヤテとヒナタの足音も、
もう聞こえない。
自分の呼吸だけが、やけに近い。
さっきまで歩いていた道の続きなのに、
ここだけ切り取られて、
別の時間に置かれているみたいだった。
ほんの一瞬。
指先がカードの縁に触れる。
冷たい。
硬い。
確かに、そこにある。
「コウタ!」
少し先からハヤテの声が飛ぶ。
現実の音だった。
一気に距離が戻る。
空気がつながる。
音が流れ込む。
コウタはハッとして、すぐに手を引く。
何も持っていない。
何も選んでいない。
――そのはずだ。
「……やめとく」
短く言って、その場を離れる。
足を踏み出した瞬間、
さっきまで止まっていた時間が、
遅れて動き出したような感覚があった。
通りの空気が戻る。
遠くでシャッターの下りる音がして、
どこかの店先から、微かな話し声が流れてくる。
さっきまでなかったはずの音が、
何事もなかったみたいに並び始める。
それでも。
一度切り離された感じだけが、
うまく戻らないまま残っている。
コウタは二人の背中を追う。
歩き出してから、数歩で追いつくはずだった。
けれど、その数歩がわずかに長く感じられる。
距離が、少しだけ伸びている。
詰めても、ぴたりと揃わない。
半歩分のズレ。
そのまま残り続ける距離。
そのとき、ポケットに小さな違和感を覚える。
布越しに、指先に触れる硬さ。
覚えのある感触。
コウタは、そこで初めて思い出す。
取り出す。
掌の上に、重さが乗る。
小さな黒い石が、そこにあった。
何も選ばなかったはずなのに、
何かだけが、まだ残っていた。
【呼ばれる方】
コウタは、わずかに歩幅を上げる。
さっきまで遠く感じていた二人の背中に、
少しずつ距離が詰まっていく。
数歩で追いつくはずの距離。
それなのに、
踏み出した分だけ、ほんの少しだけ遠くなる。
目に見えるほどではない。
けれど、確かに揃わない。
半拍だけ、遅れる。
それでも、もう一歩踏み出す。
もう一歩。
その繰り返しで、ようやく距離が揃う。
コウタは二人の横に並ぶ。
呼吸も、足音も、
今度はちゃんと重なる。
リズムが戻る。
さっきまでのズレが、なかったことになる。
――はずだった。
その瞬間。
ヒナタがふと、足を止める。
振り返るわけでもなく、
前を見たまま。
動きだけが、切り離される。
「……鳴ってる」
小さな声だったが、
空気の流れがそこで止まる。
音の重なりが、わずかにほどける。
「なにが」
コウタが聞き返す。
さっき揃ったはずの呼吸が、
またわずかにずれる。
ヒナタはすぐには答えない。
聞いているというより、
確かめている間。
「音」
「またそれ?」
ハヤテが軽く笑う。
空気を戻すような言い方。
ただ、少しだけ足が遅れる。
一瞬だけ、止まりかけて。
それでも、完全には止まらない。
「……そっち」
ヒナタは言い切らないまま、前へ進む。
「おい」
コウタは思わず声をかける。
ヒナタは振り返らない。
距離は近いはずなのに、
どこかで噛み合わない。
手を伸ばせば届くはずの距離。
それなのに、
指先だけが少し足りない。
「ヒナタ」
声を重ねる。
音は届いているはずなのに、
届いた実感がない。
空気の中で、一度薄くなる。
「待てって」
歩幅を上げる。
追いつこうとする。
それでも、距離は一定のまま。
コウタは一瞬だけ迷い、後ろを振り返る。
「……ハヤテ」
距離は変わっていない。
呼べば届く位置。
それなのに、
視線が一度だけコウタの横を通り過ぎる。
何もないはずの場所を、
確かめるように。
ほんの一瞬だけ。
そこから遅れて、目が合う。
何事もなかったみたいに、
ハヤテは笑う。
「ん?」
いつも通りの声。
コウタは、何も言えない。
言葉にした瞬間に、
今の違和感が確定してしまいそうで。
ヒナタはすでに路地に入っている。
見覚えのない道。
明かりは少なく、
奥にいくほど暗くなる。
足音だけが残る。
不揃いなまま。
ヒナタは一つの店の前で止まる。
「……ここ」
確認するでもなく、
ただ辿り着いた場所みたいに。
そのまま扉に手をかける。
「おい――」
言いかけたところで、扉が開く。
鈴が鳴る。
小さく、乾いた音。
ひとつだけ。
ハヤテが笑う。
「行くか」
軽い声。
いつもと変わらない調子で、
そのまま中へ入っていく。
コウタは一拍だけ遅れる。
扉をくぐる。
鈴が鳴る。
さっきと同じ音。
そのあとで、
わずかに遅れて、もう一度鳴る。
ヒナタは止まらない。
足を緩めることもなく、
まっすぐ奥へ進んでいく。
店の中は静かだった。
外の通りとは切り離されたみたいに、音がひとつずつ薄く、遠い。
床を踏む感触だけが残る。
奥に、人。
視界の中に入っているのに、
存在として結びつくまでに遅れがある。
最初は輪郭が曖昧で、
そこに"いる"と認識するまでに、わずかな間があった。
ヒナタが、止まる。
その瞬間、空気がわずかに締まる。
「珍しい客だ」
静かな声。
ヒナタはすぐには答えない。
聞き返すでもなく、
否定するでもなく、
一拍だけ、間を置く。
その間に、何かを測っているように。
「……鳴ってる」
小さく言う。
確信ではない。
けれど、迷いもない。
店主はゆっくり頷く。
「そうか」
それだけ。
説明も、驚きもない。
最初からそこにあった流れを、
ただ受け取るみたいに。
ヒナタの視線が、ゆっくり動く。
視線の先が、先に決まっているみたいに。
棚の一角で止まる。
青い石のついたネックレスが、
光を受けて、わずかに揺れている。
ヒナタは動かない。
時間が、わずかに遅れる。
それから、
遅れて手が伸びる。
「……これだ」
確かめるように言う。
誰に向けるでもなく、
ただ言葉として落とす。
ヒナタは石を覗き込む。
距離を詰める。
近づけば分かると知っているみたいに。
コウタには、何も聞こえない。
店の中は静かなまま。
空気も、音も、
どこにも変化はない。
ただ、ヒナタだけが、そこに何かを受け取っている。
店主が静かに言う。
「気に入ったかい」
ヒナタは、否定も肯定もしない。
ただ、手にしたまま動かない。
離す理由がないように。
「持っていくといい」
店主の声は変わらない。
強制はない。
けれど、選択肢もない。
ヒナタは頷かない。
返事もしない。
それでも。
そのまま受け取る。
決めたわけではない。
けれど、もう決まっているみたいに。
【揃ってしまうもの】
店主の視線が動く。
ゆっくりと、迷いなく、
ハヤテの方へ向く。
選ばれているというより、
順番が最初から決まっているみたいに。
「……俺も?」
ハヤテは少しだけ手を止める。
迷っているようで、
その実、どこかで決まっているような間。
視線が一度だけ止まる。
黄色い石のついたシンプルなピアス。
「これかな」
店主は何も言わない。
肯定も否定もない。
その沈黙が、
それでいいという合図みたいにそこにある。
最後に、視線が動く。
コウタの方へ。
逃げ場を残さない速度で。
コウタは動かない。
棚も見ない。
視線を向ければ、
何かを選んでしまう気がした。
それでも、銀色のリングが目に留まる。
他のものと違って、
選ばれずに残った形。
石が外れ、中央にはくぼみだけ。
何かがあった痕跡だけが残っている。
「いくらですか?」
ハヤテが聞く。
現実に引き戻すような声。
「もう受け取っている」
店主が言う。
静かに、確定だけを置く声。
ハヤテがコウタを見る。
コウタは首を振る。
そんな覚えはない。
払った記憶も、
差し出したものも、思い当たらない。
「さっき、触れただろう」
その声を、どこかで聞いた気がした。
店主がリングを差し出す。
ゆっくりと。
逃げられない距離まで。
コウタは手を出さない。
視線だけがリングに落ちる。
触れていないのに、指先に感触が浮かぶ。
冷たさ。
わずかな硬さ。
思い出すというより、
そこに残っている感覚。
もう一度、差し出される。
距離が、ほんのわずかに縮まる。
コウタは躊躇う。
小さな重みが、少し遅れて掌に乗ってくる。
今、受け取ったのだと、あとから理解する。
「これで、揃う」
「……あ」
ポケットの中の、黒い石。
リングの、何かを待っているような、くぼみ。
指先が、確かめるように力を込める。
カチリ、と小さな音がした気がした。
ほんの一瞬、店主と視線が合う。
「……選んだな」
その言葉は、
誰に向けたものでもないみたいに落ちる。
終わりを告げるでもなく、
始まりを示すでもなく、
ただ、区切りだけがそこにある。
リングは、指にピタリとはまる。
さっきまで空だったくぼみに、
黒い石がはまっている。
隙間がない。
違和感がない。
最初からそこにあったみたいに、
指に馴染んでいる。
ハヤテが笑う。
「いいじゃん」
軽く言う。
「揃ってる」
その言葉に、迷いはない。
外に出ると、夜はさらに静まり返っていた。
さっきまであったはずの音が、
一段奥へ引いたように遠い。
三人で歩く。
足音が一定のリズムを刻む。
今度は揃っている。
ずれていない。
ヒナタが、ふと立ち止まる。
ほんの一瞬だけ。
確かめるみたいに。
それから、何もなかったみたいに歩き出す。
コウタはその横顔を見る。
ヒナタの指が、無意識に何かをなぞっている。
弦の上をなぞるみたいに。
音は出ていない。
けれど、動きだけが、はっきりと形になっている。
ヒナタの胸元には、青い石が光る。
わずかに揺れる。
呼吸とは別のリズムで。
コウタは、目を逸らす。
それ以上は見ない。
【最初からあった音】
スタジオは、いつも通りの明るさだった。
外の時間とは関係なく、
同じ温度で保たれている空間。
昼でも夜でも変わらない光。
窓のない箱の中で、時間だけが切り離されている。
アンプの電源音と、
わずかな機材のノイズだけが、静かに流れている。
コウタは、ケースからベースを出す。
ストラップをかける。
位置を整える。
何度も繰り返してきた動作。
迷いも、引っかかりもない。
弦を軽く弾く。
一音。
音は、いつも通り。
太さも、伸びも、変わらない。
何も変わっていない。
変わっていないはずの場所。
扉が開く。
ヒナタが入ってくる。
足音は小さい。
それでも、空気がわずかに動く。
何も言わない。
視線も合わせない。
コウタの方を見ないまま、
そのままギターを手に取る。
ストラップをかける。
チューニングもそこそこに、指を置く。
準備というより、
すでに続きに入っているみたいな動き。
ほんの一瞬だけ、止まる。
それから、弾く。
一音。
空気が、わずかに変わる。
音の輪郭が、
ほんの少しだけ、前に出る。
コウタの指が止まる。
今の音。
聞いたことがないはずなのに、
知っている。
どこで、ではない。
いつかでもない。
ただ、そこにあったものを、
今、触れた感覚。
ヒナタは止まらない。
そのまま続ける。
フレーズが繋がる。
流れていく。
迷いがない。
作っている音ではない。
なぞっている。
すでに置かれていたものを、
順番に拾い上げているだけのように。
コウタは、音を追う。
合わせる。
考える前に、指が動く。
自然に、合ってしまう。
初めてのはずなのに、
ズレない。
合わせようとする余地がない。
そのことの方が、違和感になる。
遅れて、ハヤテが入ってくる。
耳には、黄色い石のピアスが光っている。
光を受けて、わずかに揺れる。
「お、始まってる?」
いつもと変わらない調子。
スティックを回しながら、
そのまま椅子に座る。
ヒナタの音を聞く。
一拍だけ、間。
何かを測るような短い沈黙。
それから、何でもない顔で入る。
リズムが乗る。
重なる。
揃う。
あまりにも自然に。
三人の音が重なる。
その瞬間。
コウタは、わずかに指を止める。
何かが、噛み合いすぎている。
ベースでもない。
ギターでもない。
ドラムでもない。
どれにも当てはまらない。
それでも、どれにも外れていない。
音の隙間が、埋まっている。
本来なら残るはずの空白が、
最初からなかったみたいに消えている。
呼吸の余白。
間の余白。
それが、存在していない。
数えようとする。
三つ。
はずなのに。
どこかで一つ分だけ、
厚みがずれている。
増えているわけではない。
減っているわけでもない。
ただ、合っていない。
はっきりとは掴めない。
それでも、消えない。
曲が終わる。
余韻だけが残る。
音は止まっているのに、
空気の中にはまだ続きがある。
誰もすぐに動かない。
時間が少しだけ遅れる。
ハヤテが、ふっと笑う。
「いいじゃん」
軽い声。
「なんか、最初からあったみたい」
その言い方が、少しだけ正しい。
コウタは、何も言わない。
ヒナタを見る。
ヒナタは、指を止めたまま、
弦の上に手を置いている。
さっきと同じ位置。
わずかに、なぞる。
音は出ない。
でも、そこにまだ続きがあるみたいに。
触れれば鳴る、ではなく、
もう鳴っているものに触れているような動き。
コウタは、視線を落とす。
自分の手。
弦。
その先。
ポケットの中のリングが、
わずかに重い。
存在を主張するでもなく、
ただ、そこにある重さ。
あのとき、選ばなかったはずのもの。
それでも、持っている。
外した覚えも、しまった覚えもないのに。
「タイトルどうする?」
ハヤテが言う。
軽い調子で。
いつもの流れの中で。
ヒナタは、少しだけ間を置く。
「……まだ」
短く言う。
コウタは、その言葉を聞いて、
わずかに息を止める。
まだ、ではない。
たぶん。
そのとき。
スタジオの外を、誰かが歩く音がする。
足音。
一定のリズム。
コツ、コツ、と続く。
一拍、遅れて。
何かが、重なる。
同じリズムで、
少しだけ遅れて。
重なったはずなのに、
数えると合わない。
コウタだけが、顔を上げる。
音の方へ視線を向ける。
誰も気にしない。
ヒナタはギターを持ったまま。
ハヤテはスティックを回している。
外の音と、中の音。
本来なら分かれるはずのものが、
切れていない。
境目がない。
つながっている。
コウタは、何も言わない。
言えば、形になる気がした。
ただ、もう一度だけ弦に触れる。
さっきの音をなぞる。
ぴたりと合う。
ズレない。
最初から、そこにあったみたいに。
外の足音は、まだ続いている。
中の音と、同じ距離で。
区別がつかない。
つかないまま、重なっている。
【揃いすぎる音】
会場は、それほど大きくない。
天井も低く、音が逃げにくい箱だった。
壁に当たった音が、そのまま戻ってくる。
人の熱も、呼吸も、照明の温度も、狭い空間の中に少しずつ溜まっていく。
客のざわめきは、始まる直前になると、自然にひとつにまとまっていく。
笑い声。
小さな話し声。
足元で何かを動かす音。
ばらばらだったはずのものが、開演が近づくにつれて、少しずつ同じ方向を向く。
その流れは、いつもと同じだった。
特別な日ではない。
ただの一本。
ただのライブ。
ステージに上がる。
照明が落ちる。
暗転の中で、機材のランプだけが浮かぶ。
ヒナタは何も言わない。
ギターを持ったまま、いつもと同じ位置に立つ。
その立ち方は静かで、余計な力がない。
けれど、今日は少しだけ、そこに置かれているようにも見える。
コウタはベースを構えながら、一度だけ客席を見る。
暗くて、顔はよく見えない。
それでも、そこに"いる"数だけはわかる。
熱。
視線。
息をひそめる気配。
その密度が、いつもより少しだけ揃っている気がした。
最初の曲に入る。
いつも通り。
問題はない。
音も、流れも、すべて予定通りに進む。
ベースの位置も、ドラムの入りも、ギターの鳴りも、何も外れていない。
むしろ、よく合っている。
それが、少しだけ気になる。
数曲終わって、短い間が空く。
ハヤテがスティックを軽く回す。
「次、新しいやついく?」
軽い声。
観客には聞こえていない、三人だけの距離の声。
ヒナタは、わずかに頷く。
コウタは何も言わない。
でも、わかっている。
あの曲だ。
ヒナタが、指を置く。
あの日と同じ場所に。
ほんの一瞬、止まる。
考えている間ではない。
迷っている間でもない。
そこにあるものを、もう一度確かめるような間。
それから。
一音。
空気が、わずかに揃う。
音が広がるより先に、空間の方が整う。
客席のざわめきが、一拍分だけ遅れる。
それから、消える。
静かになったのではない。
揃ったのだと、コウタは思う。
弾きながら、客席の方を見る。
暗い。
でも、見える。
動きが、揃っている。
揺れ方。
呼吸。
視線。
全部が、同じタイミングで止まっている。
誰か一人ではない。
全体が、そうなっている。
ハヤテが入る。
リズムが重なる。
ぴたりと合う。
いつも以上に、正確に。
その正確さに、わずかに引っかかる。
合いすぎている。
ズレがない。
いつもなら、ほんの少しだけ残る揺れがある。
人が鳴らしているからこその、遅れや癖がある。
それが、今日は見つからない。
なのに。
数えようとすると、どこかで合わない。
三人のはずなのに、厚みだけがひとつ分ずれている。
増えているわけではない。
誰かが足されているわけでもない。
それでも、音の奥に、もう一枚ある。
はっきりとは掴めない。
それでも、消えない。
観客はそれを、違和感としてではなく、完成した音として受け取っている。
曲が進む。
止まらない。
ヒナタは迷わない。
最初から最後まで、すでに決まっているみたいに弾く。
その横顔に、表情はほとんどない。
ただ、指だけが動いている。
どこかから流れてくる音を、遅れずに拾っているみたいに。
コウタは、それに合わせる。
合わせられてしまう。
考える前に、指が動く。
どこにもズレがない。
サビに入る。
その瞬間。
客席の奥で、わずかに動くものがある。
人の動きではない。
けれど、そこに"立っている"。
客の隙間に紛れているのではなく、客席そのものの奥に重なっている。
ただ、いる。
コウタは目を逸らす。
見ない。
見れば、変わる気がした。
見なければ、まだ何も起きていないことにできる。
曲が終わる。
音が止まる。
余韻だけが残る。
その余韻が、少しだけ長い。
消えきらない。
アンプのノイズとも違う。
会場の反響とも違う。
音が終わったあとに、まだ音の形だけがそこに残っている。
拍手が起こる。
タイミングが、揃いすぎている。
一斉に始まり、一斉に止む。
誰かが合わせているわけではないのに、全部が同じ動きをする。
その正しさが、少し怖い。
ハヤテが笑う。
「いいじゃん」
軽い声。
「今日、めっちゃ揃ってる」
ヒナタは何も言わない。
ギターを持ったまま、指をわずかに動かす。
音は出ていない。
でも、まだ続きがあるみたいに。
弦に触れていないのに、そこだけが鳴っているみたいに。
コウタは、客席を見る。
さっきまであったはずの違和感が、もう見えない。
最初からいなかったみたいに、消えている。
暗い客席。
揃った視線。
整った沈黙。
何もおかしくない。
おかしくないことが、いちばん引っかかる。
ポケットの中のリングが、重い。
あの日と同じ重さ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、外せない重さ。
コウタは、小さく息を吐く。
違和感は、残ったまま。
それでも、
もう、外せない。
【残り続ける音】
ライブのあと、スタッフから映像データが共有された。
終演後の、いつも通りの流れ。
特別なことは何もない。
固定カメラの映像。
ライン録りの音。
現場で起きたことを、そのまま閉じ込めた記録。
ただ、それだけのはずだった。
コウタは自宅でそれを流す。
部屋は静かで、外の音もほとんど入らない。
壁に囲まれた、音が逃げない空間。
さっきまでいたライブハウスと、どこか似ている。
再生ボタンを押す。
わずかなクリック音。
それを合図に、画面が切り替わる。
映像が始まる。
ステージ。
照明。
客席。
すべて、見慣れた光景。
見てきたものと、ほとんど同じ。
最初の数曲は問題なかった。
音も映像も、
違和感はない。
バランスも良い。
ミスもない。
普通に、良い出来だと思う。
そのまま流す。
時間が進む。
例の曲に入る。
一瞬だけ、
画面の明るさが揺れる。
ほんのわずか。
気のせいで済ませられる程度の変化。
コウタは何も操作しない。
そのまま見る。
音が入る。
最初の一音。
コウタの指が止まる。
スピーカーから鳴っているはずなのに、
部屋の空気の方が、先に変わる。
音が届く前に、
空間がそれを受け入れているような感覚。
続く。
フレーズが流れる。
スタジオで弾いたときと同じ。
ライブで感じたものと同じ。
違和感も、そのまま。
音の奥に、もう一枚ある。
数えようとする。
三人。
のはずなのに。
どこかで一つ分だけ、厚みが合わない。
増えているわけではない。
それでも、重なっている。
消えていない。
全部と噛み合っている。
そのこと自体が、少しだけおかしい。
コウタは、再生を止めようとして、
指を止める。
画面の端。
客席の奥。
暗いままのはずの場所に、
一つだけ、形がある。
人影。
動かない。
観客の誰とも重ならない位置。
それなのに、そこに"いる"。
誰も気づいていない。
最初から背景の一部だったみたいに。
顔は見えない。
距離もある。
それでも。
姿勢だけが、やけにわかる。
無駄がない。
揺れない。
ブレがない。
ただ立っているだけで、
全部が揃っている。
コウタは、少しだけ目を細める。
画面の光が変わる。
見え方が、わずかにずれる。
髪の色。
黒い。
照明の反射ではない。
影の落ち方でもない。
その色だけが、
他と混ざらずに残っている。
動きがない。
呼吸の揺れもない。
それでも、
そこにいる。
画面の中の音と、完全に重なっている。
映像の外ではなく、
音の中に立っているみたいに。
コウタは、視線を逸らせない。
そのまま、
無意識に手が動く。
髪に触れる。
整えるように、軽くなぞる。
いつもの癖。
指先の感触が、少しだけ違う気がする。
髪の流れ。
触れたときの抵抗。
わずかに、ずれている。
そこで、止まる。
ゆっくりと手を下ろす。
もう一度、画面を見る。
同じ映像が流れている。
人影は、動いていない。
最初からそうだったみたいに。
変化はない。
何も起きていない。
はずなのに。
コウタは、再生を止める。
画面が暗くなる。
光が消える。
部屋が静かになる。
何も鳴っていない。
スピーカーも、空気も、止まっている。
はずなのに。
さっきの音が、残っている。
頭の中ではない。
記憶でもない。
空間のどこかに、そのまま続いている感じがする。
音が消えきらずに、
そこに留まっている。
コウタは、ゆっくりとポケットに手を入れる。
リングの石に触れる。
指先に、重さが返ってくる。
冷たいはずなのに、
わずかに温度がある。
体温とも違う、残り方。
あの日と同じ重さ。
変わっていない。
それなのに、
少しだけ馴染んでいる。
スマホに通知が入る。
短い振動。
現実の音。
ハヤテからだった。
「さっきの映像見た?」
少し間があって、もう一通届く。
「なんかさ」
そこで一度切れる。
入力の途中で止まったみたいに。
それから。
「音、いい感じに増えてない?」
コウタは、画面を見たまま止まる。
指も、呼吸も、そのまま。
返信はしない。
できない。
何を返せばいいのか、
言葉が浮かばない。
部屋は静かだ。
何も変わっていない。
机も、壁も、光も、
すべてそのまま。
それでも。
音は、まだ続いている。
消えていない。
終わっていない。
【揃いきる前】
音は続いている。
揃っている。
ズレない。
それはもう、確認するまでもない。
コウタは、ゆっくりと視線を上げる。
ドアの方。
さっき見えた影。
もう一度、確かめるみたいに。
ノブが、わずかに動く。
開く。
スタッフが顔を出す。
「すみません、次――」
そこで言葉が止まる。
一瞬だけ、視線がコウタの横にずれる。
ほんのわずかに。
それから、自然に戻る。
「……あ、大丈夫です」
何もなかったみたいに続ける。
ドアが閉まる。
音が、ぴたりと合う。
コウタは動かない。
今の視線。
ズレていた。
確実に。
自分を見ていなかった。
その隣。
そこに、何かがある前提で。
コウタは、ゆっくりと横を見る。
黒い髪。
立っている。
さっきと同じ距離で。
同じ姿勢で。
同じ高さで。
そこにいる。
消えない。
反射ではない。
音の中でもない。
ただ、そこにいる。
コウタは、息を止める。
理解が、少し遅れて追いつく。
――見えている。
自分だけじゃない。
普通に。
最初からいたみたいに。
ヒナタは止まらない。
ハヤテも、何も変わらない。
音はそのまま続く。
揃っている。
黒い方も、同じように弾いている。
コウタと、同じ音を完全に重ねて。
ゆっくりと視線を落とす。
自分の手。
弦の上。
その隣。
もう一つの手が、同じ位置にある。
触れている。
先に。
正確に。
コウタは、何も言わない。
言えない。
そのまま、音をなぞる。
ぴたりと合う。
ズレない。
もう、
どちらが弾いているのか分からないまま。
【最初から、そうだったみたいに】
音は、止まらない。
コウタの指が動く前に、
次の位置がそこにある。
それはもう、確かめるまでもない。
ヒナタは変わらず弾き続けているし、
ハヤテも、止めずにリズムを刻んでいる。
いつも通りのはずの時間。
それでも、
コウタの中だけが、わずかに遅れている。
ほんの半拍。
その遅れを埋めるように、
もう一つの動きが先にある。
視線を上げる。
アンプの反射。
黒髪の自分。
同じ高さで、同じ姿勢で、
そこに立っている。
消えない。
コウタは、何も言わない。
ただ、その動きを見る。
一度だけ指を止める。
止めたはずの音が、止まらない。
そのまま続いている。
わずかに。
でも、確かに。
ヒナタは止まらない。
ハヤテも止めない。
音は欠けない。
むしろ、
さっきよりも整っている。
コウタは、自分の手を見る。
動いていない。
それでも音は揃っている。
そこで、分かる。
――逆だ。
自分が遅れているんじゃない。
あれが、先にある。
揺れのない方。
迷いのない方。
選ばなかった方。
それに、
自分が追いついている。
もし、俺の音が。
このまま、なくなっても。
コウタは、ゆっくりと息を吐く。
止める理由は、浮かばない。
外す理由も、見つからない。
ヒナタの音と、
ハヤテのリズムと、
黒髪の自分の低い音が、
同じものとして重なっていく。
コウタは、顔を上げない。
確かめようともしない。
そのまま、音をなぞる。
ぴたりと合う。
ズレない。
最初から、そうだったみたいに。
選ばなかったはずの音が、一歩先に鳴る。
その中に、意味だけが落ちてくる。
――それで、よかったの?
コウタは、ゆっくりと息を吐く。
それ以上は、確かめない。
理由も、まだ考えない。
考えれば、形になってしまう気がした。
まだ、触れずに置いておく。
今は、疲れているだけだ。
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「ひとつ多い音」解説
― うさぎ編とスノーフレークス編を繋ぐ、"もう一つの音"の物語 ―
「ひとつ多い音」は、Snow flakes本編の外側にある短編です。
読まなくても、本編は成立する。
けれど読むことで、Snow flakesというバンドそのものの見え方が、少しだけ変わります。
■ 小さな違和感から始まる
最初に起きる異変は、どれも説明できる程度のものです。
・水面が遅れて揺れる
・足音が半拍ずれる
・音があとから追いついてくる
・数えようとすると合わない
どれも、「気のせい」で済ませられる。
だからコウタは、何度も"見ない"ことを選びます。
意味を与えた瞬間、戻れなくなる気がするから。
この作品の恐怖は、"何かが現れること"ではなく、「認識してしまうこと」にあります。
■ コウタだけが気づいてしまう
ヒナタは、最初から少しだけ"分かっている"。
ハヤテは、違和感を深く拾わない。
その中でコウタだけが、ズレを見つけてしまう。
だからこの作品は、コウタ視点で進む必要がある。
読者もコウタと同じ速度で、少しずつ現実感を失っていく。
「夢だったはずのもの」が、起きている時間にも残り始める。
その感覚が、静かに侵食していきます。
■ 「気にした時点で、そっちに寄る」
ヒナタのこの言葉が、物語全体の核です。
ヒナタは、怪異を起こす存在ではありません。
ただ、"向こう側の音"を拾えてしまう。
だから演奏シーンでは、音を「作っている」というより、"すでに置かれていた音をなぞっている"ように見える。
ヒナタは、音に近づいているというより、音の方に呼ばれている。
■ 「選ばなかった方」
商店街で差し出される二枚のカード。
ここで重要なのは、どちらを選ぶかではありません。「選ぶ」という行為そのものです。
選んだ瞬間、"選ばなかった可能性"から切り離される。
そしてコウタは、選ばなかったつもりのまま、少しずつ"そちら側"へ寄っていく。
黒い石。リング。揃いすぎる音。
全部、"あとから遅れて成立する"。
この作品では、選択すら、少し遅れてやって来ます。
■ 揃いすぎる音
Snow flakesの音は本来、少しだけ揺れている音でした。
未完成で、余白があって、人のズレが残る音。
けれどこの物語では、少しずつ"余白"が消えていく。
・足音
・拍手
・呼吸
・演奏
・観客
全部が揃い始める。
それは上達ではない。
"整いすぎること"そのものが恐怖として描かれています。
■ 「それで、よかったの?」
ショーケースのガラス越しに現れる、黒い髪の"もう一人"。
この存在は、単純な幽霊ではありません。
・選ばなかった方
・戻らなかった可能性
・もう一つの音
・揃いきった側
そういったものの象徴です。
そしてその存在だけが、コウタに問いかける。
「それで、よかったの?」
これは、現実へ戻るかどうかの問いではありません。
気づかないふりをしたまま、半歩だけ遅れた場所に立ち続けるのか。
その確認です。
■ スノーフレークス編へ繋がるもの
この短編のあとに続くのが、スノーフレークス編です。
そこでは、ヒナタが音を"整え始める"。
ズレを減らし、余白を埋め、完成度を上げていく。
コウタは、そこに強い違和感を持つ。
未読なら、それは単なる音楽性の衝突に見えます。
でも「ひとつ多い音」を読んでいると、意味が変わる。
コウタは、"揃いすぎること"の怖さを、すでに知ってしまっている。
だから彼の違和感は、音楽理論ではなく、もっと本能的な恐怖に近い。
一方ヒナタは、悪意なく、自然に、"音を揃えてしまう側"へ近づいていく。
その結果、Snow flakesというバンドそのものに、「本当に三人だけで鳴らしている音なのか?」という、静かな不穏さが生まれていきます。
■ 「ひとつ多い音」とは
この作品のタイトルが示しているのは、単純な怪異ではありません。
三人の音の中に、ほんの少しだけ混ざる、説明できない厚み。
増えているわけではない。
減っているわけでもない。
でも、数えると合わない。
それは最後まで、はっきりとは説明されません。
ただ、Snow flakesという音の奥に、最初からずっと存在していたみたいに、静かに残り続けます。
一粒のチョコレート
ビール
クッキー
ルーペ
ギターピック